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つなぐ人 — 日本と世界の物語
シリーズ

つなぐ人 — 日本と世界の物語

日本と世界のあいだに橋を架けた一人の生涯を、10分あまりでたどる J-Times の日本語の伝記ポッドキャスト。偉人として持ち上げず、時代の影も正直に置いたうえで、人と人がつながったところを見つめます。声は AI で作っています。内容は J-Times 編集部が資料で確かめたものです。

全3話更新 2026/10/27

エピソード (3)

第3回 エルトゥールル号と樫野の人々 — 嵐の夜の手当てが、日本とトルコをつないだ

1890年、嵐の夜。樫野埼灯台にたどり着いた、言葉の通じないトルコの船乗りたちを、灯台守と島の人々はどう助けたのか。灯台日誌の記録、知らせを運んだ記者・野田正太郎、伝説と史実のあいだの山田寅次郎、1985年のテヘラン救出と「恩返し」を誰が語ったのかまで、ケンとキョウコがたどります。

記事で読む(写真・出典つき)
2026/10/2712 分
第2回 三浦按針(ウィリアム・アダムス) — なぜ伊東で日本初の洋式帆船が造られたのか

漂着したイギリス人航海士ウィリアム・アダムスは、なぜ徳川家康に仕え、伊東で日本初の洋式帆船を造ることになったのか。見知らぬ土地で橋を架けた三浦按針の生涯を、ケンとキョウコがたどります。

記事で読む(写真・出典つき)
2026/10/261 回再生11 分
第1回 八田與一 — 台湾の大地に水を引いた技師

金沢に生まれ、日本統治下の台湾で烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師、八田與一。植民地の時代という背景も正直に見つめながら、なぜ今も台湾で慕われるのかを、ケンとキョウコがたどります。

記事で読む(写真・出典つき)
2026/10/2610 分

各回の台本

番組の会話をそのまま文字にしたものです。声は AI で作っています。

第3回 エルトゥールル号と樫野の人々 — 嵐の夜の手当てが、日本とトルコをつないだ

台本を読む

ケン:1890年、9月16日の夜。和歌山県の紀伊大島。樫野埼灯台の当直の部屋に、ひとりの男が、血まみれで入ってきました。

ケン:言葉は、通じません。男は、トルコ、とだけ言って、船が沈む手まねを、繰り返すばかりでした。

キョウコ:嵐の夜に、言葉の通じない人が、血まみれで……。

ケン:灯台の職員は、2人。その夜から、彼らと島の人たちが、何をしたのか。今日は、その記録を、たどっていきます。

ケン:J-Times のポッドキャスト、つなぐ人。日本と世界の物語。語り手のケンです。

キョウコ:聞き手のキョウコです。この番組の声は、AIで作っています。お話の中身は、J-Times 編集部が、当時の記録や、国と町の公式の資料で確かめたものです。

ケン:第3回は、エルトゥールル号と、樫野の人々。問いは、これです。嵐の夜の手当てが、どうして、日本とトルコをつなぐことになったのか。

キョウコ:エルトゥールル号って、トルコの船ですよね。なんで日本に来ていたんですか?

ケン:当時の、オスマン帝国の軍艦です。1887年に、日本の小松宮彰仁親王がイスタンブールを訪れました。その返礼として、皇帝アブデュルハミト2世が、明治天皇への使節を送ったんです。

ケン:串本町は、ヨーロッパの強い国々との、不平等条約に苦しむ者どうしとして、日本と対等な条約を結ぶ狙いもあった、と説明しています。

キョウコ:同じ悩みを持つ国どうし、だったんですね。

ケン:一行は明治天皇に会い、東京で3か月にわたって歓迎を受けました。そして1890年9月15日、横浜を出港します。

ケン:9月は、台風の季節。船は、建造から26年たった木造船でした。日本側は出発前の修理を勧めましたが、帰国が遅れないよう、予定どおりに出港した、と串本町は記しています。

ケン:翌日、船は台風に遭い、昔から船乗りに恐れられていた、船甲羅という岩礁に打ち寄せられます。破れた船体から流れこんだ海水で、機関が爆発して、沈みました。夜の9時半ごろのことです。

キョウコ:助かった人は……。

ケン:69人。この数字は、どの資料も同じです。ただ、亡くなった人の数は、資料によって違います。串本町と和歌山県は587人。外務省は、600名近く、とも、581人、とも書いています。内閣府の報告書は、約500名、正確な数は不明、としています。

キョウコ:どうして、そんなに違うんですか?

ケン:乗っていた人数そのものが、確かめられないからです。報告書によれば、出港のときの人数は、トルコ側の資料でもまちまちで、日本にいるあいだにも、少なくとも13人が病気で亡くなっていました。

キョウコ:わからないことは、わからない、と言う。それも、亡くなった人への誠実さ、なんですね。

ケン:そう思います。では、あの夜に戻りましょう。生存者は、崖の下の岩場に泳ぎ着いて、暗闇の中で、ただひとつ見えた灯台の明かりを目指して、崖を登りました。

ケン:灯台には、当直の記録が残っていました。樫野崎灯台日誌です。原本は今、所在がわかりませんが、戦前に書き写されたものが、内閣府の報告書に載っています。あの夜に、いちばん近い記録です。

ケン:夜の10時15分。当直の職員のもとに、最初の男が来る。笛を吹いて、もうひとりの同僚を呼ぶ。続いて9人。2人は、自分たちの住まいで、薬と包帯で手当てをして、区長のもとへ、使いを走らせました。

ケン:夜が明けると、さらに53人が、灯台にたどり着きます。重い怪我の人は6人。そして日誌は、使った物を、ひとつずつ書き留めているんです。

キョウコ:使った物?

ケン:灯台の備品からは、豚脂、ガーゼ、硼酸、包帯、シーツ。そして、2人の私物から。さらし木綿。白米。薪。半紙。

キョウコ:自分たちの、お米まで……。

ケン:灯台に来た人が63人。樫野の浦に着いた人が6人。あわせて、69人です。

ケン:朝になると、救護は、島の人たちに引き継がれます。樫野の区長は、歩ける25人を、大龍寺に移しました。

ケン:大島村の村長、沖周は、知らせを受けると、医師を先に向かわせ、自分も1時間後には樫野に着いています。電信のある田辺へ使いを出して県に知らせ、その晩には、東京の海軍省にも、知らせを打たせました。

キョウコ:一晩で、島から、東京まで。

ケン:村の人たちは、何日も、海岸と海で捜索を続け、10月7日までに、251人の遺体を葬りました。沖村長の日記は、今、トルコ記念館にあって、報告書は、これを、第一級の災害教訓資料、と呼んでいます。

ケン:ひとつ、お伝えしておきたいことがあります。この救助には、本や映画で、もっと劇的な話も広く語られています。でも、J-Times が確かめた一次記録には、見当たらないものもあったので、この番組では話しません。

キョウコ:記録だけで、もう十分に、温かいですもんね。

ケン:ほんとうに。助けは、国境も越えました。たまたま神戸にいたドイツの軍艦が大島へ向かい、生存者の大半を神戸へ運んでいます。報告書は、これを、政治的な打算ではなく、海の男どうしの救難の慣習とみています。

ケン:生存者は神戸で手当てを受け、日本海軍の軍艦、比叡と金剛で、トルコへ送り届けられました。翌年の1月はじめに、イスタンブールに着いています。日付は、資料によって1月1日と2日に分かれます。

ケン:報告書は、ここでも率直です。海軍大臣が艦長に出した命令は、目的の1番目に、少尉候補生の練習航海を挙げていて、生存者の送還は、2番目でした。

キョウコ:きれいな話だけじゃ、ないんですね。

ケン:そして、このとき、救助の知らせをトルコまで運んだ人がいます。新聞、時事新報の記者、野田正太郎です。

ケン:全国の新聞が、義援金を集めていました。東京日日新聞の募金は、号外を見たひとりの男性が、その日の夕方に新聞社を訪れて、3円を寄附したのがきっかけだったそうです。

ケン:時事新報は、4,000円を超える義援金を集めて、野田に託し、比叡に乗せました。野田は皇帝に請われて、およそ2年イスタンブールにとどまり、士官学校で日本語を教えました。報告書によれば、確かめられる限りで、最も早い、日本人のイスラーム改宗者です。

キョウコ:そんな人が、いたんですね。初めて聞きました。

ケン:野田は、帰国して間もなく、若くして亡くなり、その仕事が日本できちんと紹介されたのは、2003年の展覧会が初めてだったそうです。国と国をつないだ人が、いつも、歴史に名を残すわけではない。

キョウコ:山田寅次郎の名前は、聞いたことがあります。

ケン:寅次郎も、義援金を東京で集め、1892年にイスタンブールに渡って、日本の品を扱う店を開いた人です。通算で、およそ20年を、彼の地で過ごしました。

ケン:ただ、寅次郎には、伝説もたくさんあります。アタチュルクに日本語を教えた、という話は、研究者の調べでは、その事実は見当たらない。日本人初のイスラーム教徒、という話も、野田との取り違えだ、と報告書は書いています。

ケン:それでも、イスタンブールを訪れた多くの日本人が、彼の世話になったのは、確かです。物語は、あったとおりに語ってこそ、だと思います。

キョウコ:そして、1985年ですね。

ケン:1985年3月。イラン・イラク戦争のさなか、イラクが、イランの上空の、すべての飛行機を攻撃の対象にすると発表しました。テヘランにいた日本人は、外国の航空会社に乗れず、日本からの救援機も、来ませんでした。

ケン:外務省によれば、日本側の働きかけを受けて、トルコのオザル首相が決断し、トルコ航空の特別機が飛びました。脱出を望んだ日本人の、ほぼ全員が、期限までにイランを出ています。人数は、串本町とトルコ大使館は215人、外務省は、約250人としています。

キョウコ:それが、エルトゥールル号の、恩返しだった、と聞いたことがあります。

ケン:串本町は、当時の駐日トルコ大使、ウトカン氏の言葉として、トルコでは子どもでもエルトゥールル号を知っている、だからトルコ航空機が飛んだのだ、と紹介しています。ただ、この発言の日付や、最初に載った場所は、確かめられませんでした。

ケン:一方で、外務省と首相官邸の記録は、日本からの要請と、トルコの決断を書いていて、エルトゥールル号を理由としては、挙げていません。

キョウコ:どっちが、本当なんでしょう。

ケン:どちらも、本当でありうる、と思います。その場にいた人たちは、95年を越えて、感謝が届いたと感じた。そして記録は、ふたつの政府と、大使館と、危険を引き受けた乗員たちが、決断を重ねた姿も残している。両方を手放さないことが、関わった全員への敬意になる。

ケン:友好は、ずっと途切れなかったわけでもありません。第二次世界大戦の終わりに、トルコは日本に宣戦布告しています。それでも、両国の人々は、そのたびに、つながることを、選び直してきました。2023年のトルコの大地震では、串本町が、3,000万円を超える義援金を集めて、届けています。

キョウコ:今、樫野に行くと、何がありますか?

ケン:島の東の端に、慰霊碑と、トルコ記念館と、樫野埼灯台が、まとまってあります。JR串本駅から、バスで37分、タクシーで20分ほど。毎年9月16日には、慰霊碑の前で追悼式典が開かれています。

キョウコ:ケンさん。灯台の人たちは、あの男の人が、どこの誰かも、知らなかったんですよね。わかっていたのは、助けがいる、ということだけ。

キョウコ:それで、自分のお米を出して、何を使ったかを、きちんと書き残した。わたし、その、書き残した、というところに、じんときました。

ケン:いい気づきですね。優しさを、大げさにせず、正確に残す。だからこそ、130年以上たった今も、わたしたちは、あの夜を信じられるんです。

ケン:最後に、聞いている皆さんにも、ひとつ問いかけを。言葉の通じない誰かが、目の前で困っていたら、あなたは、何を差し出せますか。

キョウコ:わたしは、まず、駅で道に迷っている人がいたら、声をかけてみます。言葉が通じなくても、手まねでも。

ケン:灯台日誌の記録、資料ごとの数字の違い、行き方と出典、写真は、J-Times の記事、エルトゥールル号遭難事件とは、にまとめています。番組の説明欄から読めます。

キョウコ:次回もお楽しみに。

ケン:つなぐ人。日本と世界の物語。お相手は、ケンと、

キョウコ:キョウコでした。またね。

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第2回 三浦按針(ウィリアム・アダムス) — なぜ伊東で日本初の洋式帆船が造られたのか

台本を読む

ケン:1600年の4月。ぼろぼろになった船が1隻、豊後の海にたどり着きます。今の大分県です。

ケン:船の名前は、リーフデ号。オランダを出て、大西洋と太平洋を越えてきました。錨をおろしたとき、残っていたのは、病人も含めて24人。次の日には、3人が亡くなりました。

キョウコ:24人……。長い航海の、最後の姿なんですね。

ケン:その中に、ひとりのイギリス人の航海士がいました。名前は、ウィリアム・アダムス。のちの、三浦按針です。

ケン:J-Times のポッドキャスト、つなぐ人。日本と世界の物語。語り手のケンです。

キョウコ:聞き手のキョウコです。この番組の声は、AIで作っています。お話の中身は、J-Times 編集部が、本人の手紙や、公式の情報で確かめたものです。

ケン:第2回は、三浦按針。問いは、これです。なぜ伊東で、日本初の洋式帆船が造られたのか。

キョウコ:伊豆の伊東ですよね。夏の按針祭は、知ってます。でも、なんでイギリスの人が、伊東で船を?

ケン:いっしょに、たどりましょう。アダムスは1564年、イギリスのジリンガムで生まれました。オランダの船の航海士として、東の海をめざしたんです。着いた場所を、伊東市は臼杵としています。

キョウコ:着いてから、どうなったんですか?

ケン:船で、大坂へ運ばれます。妻にあてた手紙に、こうあります。1600年5月12日、大王の都に着いた。ポルトガル語の通訳を通して、取り調べを受けた。

キョウコ:大王、って?

ケン:徳川家康のことです。家康は、国と国との、戦と和平について、こまかく尋ねました。2日たって、また呼び出したそうです。

キョウコ:いきなり、家康さんの前に。こわかったでしょうね。

ケン:言葉も通じない国です。ただ、家康から見ると、海を渡ってきた航海士は、めずらしい人でした。オランダやイングランド、スペインやポルトガルの事情を知っている。関ヶ原を目前にした家康には、手放しにくい人だったと考えられています。

キョウコ:流れ着いた人が、急に、いちばん大事な人のそばに。

ケン:家康は、アダムスに日本の名前を与えます。それが、三浦按針。按針は、水先案内人。船の進む向きを決める、航海士のことです。

キョウコ:じゃあ、三浦は?

ケン:相模国の、三浦郡です。家康は、そこの逸見、今の横須賀市に、按針の知行地を与えました。石高は、資料によって、220石とも、250石とも書かれています。

ケン:按針は手紙に、イングランドの領主のような身分で、80人から90人の農民が仕えている、と書きました。武士のしるしの、2本の刀も与えられたと、伊東観光協会は紹介しています。

キョウコ:漂着した航海士が、お侍さんに。すごい変わりようですね。

ケン:ここから、伊東の話です。来日して4年か5年たったころ。家康は按針に、小さな船を造るよう命じました。

ケン:按針は、断ります。自分は、船大工ではない、と。すると家康は、こう答えたそうです。やってみよ。うまくいかなくても、かまわない。

キョウコ:やってみよ。なんだか、いい上司みたい。

ケン:そうかもしれません。できあがったのは、およそ80トンの船。手紙には、何から何まで、わたしたちの流儀どおりに造った、とあります。家康は船に乗って、気に入りました。

キョウコ:でも、それが、どうして伊東なんですか?

ケン:じつは、按針の手紙には、造った場所が書いてありません。伊東と結びつけているのは、日本側の資料です。伊東観光協会によると、家康は、御船奉行の向井将監らを、按針といっしょに伊東へ向かわせました。

ケン:理由は、3つあると、協会は説明しています。1つめは、木材。伊東は、天城山系を背にしていて、船の木を山から運びやすかった。

ケン:2つめは、岸がすぐに深くなること。できた船を、浮かべるまでが短くてすむ。3つめは、河口の砂州。砂州を掘れば、そのまま船を組む台になりました。

キョウコ:砂を、台にするんですか?

ケン:江戸の初めの記録、慶長見聞録に、そのやり方が残っています。伊東の浜辺、川辺の砂州に穴を掘る。砂に柱を並べて台にして、船の底を組む。

ケン:組み立てが進むと、砂を掘って、船を少しずつ沈めていく。できあがったら、川をせき止めて、ためた水を一気に流し込む。そうして、船を海に浮かべたそうです。

キョウコ:機械もないのに、川の水で船を浮かべる。砂のドックですね!

ケン:まさに、砂のドックです。川の名前は、伊東観光協会は松川、伊東市は唐人川と、資料で違います。

ケン:そのあと、按針は2隻目を命じられます。こちらは、120トン。この船で、都の京から、江戸まで航海した、と手紙にあります。

キョウコ:いつごろの話ですか?

ケン:ここも、資料で幅があります。1隻目は1604年か1605年ごろ。2隻目は1605年から1607年ごろ。本人が、年を書いていないんです。

ケン:そして、この120トンの船が、海を渡ることになります。1609年9月30日。スペインの大きな船、サン・フランシスコ号が、嵐で、上総国の岩和田村の海岸に打ち上げられました。今の千葉県、御宿町です。

キョウコ:また、難破した船。

ケン:助かった人は、御宿町の記録で317人。按針の手紙では、340人か350人。数は違いますが、300人を超える人たちが、地元の人たちに助けられました。

キョウコ:言葉も知らない人たちを、浜の人たちが助けたんですね。

ケン:一行を率いていたのは、フィリピンの臨時総督だった、ロドリゴ・デ・ビベロ。1610年、家康は、按針が伊東で造った120トンの船を、ビベロに貸し与えました。

ケン:船の名は、サン・ブエナ・ベンツーラ号。幸運、という意味です。23人の日本人も乗り込み、一行は浦賀から、メキシコのアカプルコへ渡りました。

キョウコ:伊東の砂浜で組んだ船が、太平洋を渡ったんですね!

ケン:続きがあります。1611年、スペインからは大使と贈り物が届き、船の代金も支払われました。静岡市の久能山東照宮には、スペイン国王フェリペ3世が、救助のお礼に家康へ贈った洋時計が、今も残っています。国の重要文化財です。

ケン:伊東の1隻の船が、日本とスペイン、メキシコを結ぶ、最初のころの公式なやりとりの、一部になったんです。

キョウコ:遭難した人を助けて、船を貸して、お礼が届く。争いじゃなくて、助け合いでつながったんですね。

ケン:ただ、按針自身の物語は、明るいだけではありません。1611年の手紙で、按針は書いています。妻と子どもに会うため、国へ帰りたいと願い出た。でも、家康は許さなかった。

キョウコ:え、帰れなかったんですか。

ケン:帰れませんでした。大切にされることと、自由であることは、同じではなかった。按針は、そのあいだで生きた人です。

ケン:1613年、按針は平戸に来て、イギリスの商館を開くために力を尽くします。そして1620年、平戸で亡くなりました。

ケン:お墓は、平戸と、横須賀の逸見にあります。逸見の石塔は、按針の遺言で、江戸を望む場所に建てられた供養塔と考えられています。平戸では2020年、出てきた人骨が、按針本人の可能性が高い、と発表されました。別の人の可能性も、残るとしています。

ケン:伊東市は、伊東で造られた船を、日本初の洋式帆船と位置づけています。ただ、按針の手紙は、西洋式の船を2隻造ったとは書いていても、日本初とは書いていません。

キョウコ:今の伊東には、何が残っているんですか?

ケン:毎年8月の按針祭。第1回は、1947年です。海沿いには、按針メモリアルパーク。そして、ふるさとのジリンガムとは、1982年に姉妹都市になりました。今は、合併してできたメドウェイ市と、結ばれています。

ケン:臼杵、横須賀、平戸、そして伊東。按針ゆかりの4つの町は、三浦按針連携市として、つながっています。

キョウコ:ケンさん、わたし、思い出したんです。はじめて東京に出てきたとき、知り合いがひとりもいなくて。最初に話しかけてくれた、となりの席の人のこと、今でも覚えてるんです。

キョウコ:按針も、最初は、ただの、よそから来た人だった。でも、やってみよ、と言われて、やってみた。そうしたら、その人自身が、橋になっていったんですね。

ケン:いい言葉ですね。よそから来た人は、両方の岸を知っている人でもあります。だから、橋になれる。

ケン:最後に、聞いている皆さんにも、ひとつ問いかけを。あなたが新しい場所に来たとき、橋になってくれた人は、誰でしたか。そして今、あなたのそばに、来たばかりの誰かはいませんか。

キョウコ:わたしは、来月から職場に来る新しい人に、最初に声をかけてみます。やってみよ、の気持ちで。

ケン:按針の手紙、資料ごとの違い、年表と出典、写真は、J-Times の記事、三浦按針とは、にまとめています。番組の説明欄から読めます。

キョウコ:次回もお楽しみに。

ケン:つなぐ人。日本と世界の物語。お相手は、ケンと、

キョウコ:キョウコでした。またね。

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第1回 八田與一 — 台湾の大地に水を引いた技師

台本を読む

キョウコ:ねえケンさん。2026年の5月8日、台湾のあるダムのほとりで、総統が、日本人の技師の銅像に花を手向けた、って聞いたんです。

ケン:烏山頭ダムですね。その日は、技師が亡くなって84年目の追悼式でした。日本からは、金沢市長や、技師のお孫さんをふくむ、280人あまりが参列しました。

キョウコ:84年も前に亡くなった人を、今も?

ケン:ええ。総統は、こう述べたそうです。水は、田畑だけでなく、人の心にも流れている。

キョウコ:人の心にも、流れている。

ケン:J-Times のポッドキャスト、つなぐ人、日本と世界の物語。語り手のケンです。

キョウコ:聞き手のキョウコです。この番組の声は、AIで作っています。お話の中身は、J-Times 編集部が、公的な資料などで確かめたものです。

ケン:第1回は、八田與一。台湾の大地に、水を引いた技師です。

キョウコ:八田與一さん。どんな人だったんですか?

ケン:1886年、明治19年の2月21日。今の石川県金沢市に、五男として生まれました。第四高等学校から、東京帝国大学の工科大学へ。土木を学びます。

ケン:1910年、24歳で、台湾総督府の技手になりました。

キョウコ:台湾総督府。ということは、そのころの台湾は。

ケン:はい。台湾は、1895年から1945年まで、日本の統治下にありました。八田は、その統治の役所の技師として、海を渡ったんです。この話は、まず、そこから始めないといけません。

キョウコ:植民地の時代の、お話なんですね。

ケン:そうです。そのうえで、聞いてください。台湾の南西部に、嘉南平原という、広くて肥えた土地がありました。でも、雨は5月から10月に集中する。水はけも悪い。洪水と、干ばつを、くり返していました。

キョウコ:雨が降れば水びたし、降らなければ、からから。

ケン:天気まかせの田んぼ、だったんです。八田は、灌漑でこれを変えられると考えました。1917年に、計画をまとめます。

ケン:計画が認められると、八田は総督府の職を辞めて、1920年にできた水利の組合の技師になりました。そこから10年。工事は1920年から1930年まで続きます。

キョウコ:どんなダムを造ったんですか?

ケン:堰堤の長さは1,273メートル。高さは56メートル。金沢ふるさと偉人館は、当時では東洋一の規模、と紹介しています。

ケン:水路は、総延長およそ1万6千キロ。およそ15万ヘクタールの農地に、水を届けました。これが、嘉南大圳です。

キョウコ:1万6千キロ! 想像がつかない長さです。

ケン:ただ、今の水路の数字は、資料によって違います。2026年の追悼式で、総統は、水路の総延長を8,810キロと述べました。何を数えた数字なのかは、確かめられていません。

キョウコ:地震の多い台湾で、そんなに大きなダム。どうやって造ったんですか?

ケン:セミハイドロリックフィル、という造り方です。土や石を、両側に盛る。そこへ水を当てる。すると、細かい土ほど、真ん中へ流れていく。真ん中に、水を通さない粘土の層ができるんです。

キョウコ:水の力で、土を並べるんだ。

ケン:そうです。コンクリートは、ダム全体の、およそ0.5パーセントだけ。大型の機械も、47種類、取り入れました。そしてもう1つ、大事なことがあります。

キョウコ:なんですか?

ケン:働く人の町です。よい仕事は、安心して働ける環境から生まれる。そう考えて、現場に、宿舎や学校、病院、お店、お風呂、プール、テニスコートまで造りました。八田自身も、家族とそこで暮らしました。

キョウコ:家族と暮らせる工事現場。働く人のことを、ちゃんと見ていたんですね。

ケン:つらい出来事も、ありました。1922年の12月、トンネルでガス爆発が起きて、多くの作業員が死傷しました。人数は、資料によって違います。

ケン:翌年の1923年には、関東大震災で、補助金が削られました。作業員を、大きく減らさなければならなくなります。約半分とする資料も、3分の1ほどとする資料もあります。

キョウコ:工事の途中で、辞めてもらう。つらい決断ですね。

ケン:伝えられているのは、こういう話です。八田は、有能な人から先に辞めてもらった。そのほうが、次の仕事を見つけやすいから。再就職の先を探し、工事が戻ったら、優先して雇い直す、と約束した、と。

ケン:10年の工事で、家族をふくめ134人が亡くなりました。八田は、ダムの下に殉工碑を建てて、日本人と台湾人の区別なく、亡くなった順に、名前を刻みました。

キョウコ:区別なく、亡くなった順に。

ケン:ひとつ、正直に言っておきます。こうした話の多くは、伝記や、顕彰の資料にもとづいています。日本人と台湾人の待遇や賃金をくらべた一次資料は、記事の取材では見つかりませんでした。

キョウコ:じゃあ、この大きな工事は、結局、誰のためだったんでしょう。

ケン:いい問いです。答えは、その両方。台湾の農民のためでも、帝国のためでもあった。どちらに重きを置くかは、今も研究者のあいだで議論があります。

ケン:水は、平原全体を毎年うるおすほどは、ありませんでした。そこで、土地を3つに分けて、稲、サトウキビ、それ以外の作物を、1年ごとに回したんです。三年輪作です。

キョウコ:乏しい水を、みんなで分け合う工夫、ですね。

ケン:そう見る資料もあります。水を受けられる農家は3倍になり、1937年には、米の生産額が、建設前のおよそ11倍になった。お米は、日本へも送られました。

ケン:一方で、同じ仕組みを、批判的に見る人もいます。経済学者の矢内原忠雄は、1929年の、帝国主義下の台湾という本で、日本の砂糖の会社の利益にかなうものだ、と論じました。

ケン:農民は、重い水租、つまり水の使用料を負いました。作るものを、自由に選べなくなった。1930年には、およそ1,000人の農民が抗議し、払えなかった土地が競売にかけられた、という記録もあります。

キョウコ:いい話だけじゃ、ないんですね。

ケン:ええ。ただ、台湾大学の経済学者たちは、2006年の研究で、農民の所得は大きく上がったと結論づけています。同じ事実を見て、どこに重みを置くか。そこが違うんです。

キョウコ:八田さんは、そのあと、どうなったんですか?

ケン:1942年5月8日。フィリピンへ向かう大洋丸が、東シナ海で、アメリカの潜水艦に沈められました。八田は、56歳で亡くなりました。

キョウコ:5月8日。追悼式の日ですね。

ケン:妻の外代樹さんは、終戦からおよそ2週間後、1945年の9月1日に、烏山頭ダムで、自ら命を絶ちました。45歳でした。台湾の資料には、8月とするものもあります。今は、夫とともに、ダムのほとりに眠っています。

キョウコ:そうだったんですね。

ケン:そのお墓を建てたのは、嘉南の人たちでした。1946年のことです。そして、その年から毎年、5月8日に、お墓の前で追悼を続けてきました。

ケン:座った姿の銅像は、八田が生きていた1931年にできたものです。戦争の終わりに持ち出されたあと、戦後に地元の人たちが見つけ、日本人の銅像が禁じられていた時代に、隠して守りました。1981年に、元の場所へ戻ります。

キョウコ:隠して、守ったんですか。

ケン:尊敬は、一枚岩ではありません。2017年には、銅像の頭が切り落とされる事件がありました。頭は見つからず、奇美博物館にある同じ像から型を取って、修復されました。

ケン:2011年には、工事のころの宿舎と八田の家を復元した、八田與一紀念園区が、ダムの北側に開かれました。ダムは、台南市の官田区にあります。

ケン:そして2026年の5月7日。八田の生まれた金沢市と、台南市が、合意書を結んで、友好都市になりました。

キョウコ:今日のお話を聞いて、思ったんです。八田さんに感謝することと、その時代の仕組みを問うこと。どちらかを選ばなくても、いいのかもしれないって。

ケン:記事も、そう結んでいます。どちらも消さずに、両方を抱えることが、いちばん誠実な覚え方かもしれない、と。

キョウコ:最後に、聞いている皆さんにも、ひとつ問いかけを。日本と台湾の友好は、よく、八田さん一人の物語として語られます。でも、水路を守ってきた農民や、殉工碑の134人の物語も、一緒に思い浮かべたら。あなたには、何が見えてきますか?

ケン:生涯の歩み、ダムの造り方、評価の議論、行き方、写真と出典は、J-Times の記事、八田與一とは、にまとめています。番組の説明欄から読めます。

キョウコ:次回は、三浦按針、ウィリアム・アダムス。なぜ伊東で、日本で初めての洋式の帆船が造られたのか。いっしょにたどりましょう。

ケン:つなぐ人、日本と世界の物語。お相手は、ケンと、

キョウコ:キョウコでした。またね。

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