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八田與一とは — 台湾の烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師の生涯と、今も慕われる理由

八田與一とは — 台湾の烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師の生涯と、今も慕われる理由

金沢に生まれ、日本統治下の台湾で10年をかけて東洋一のダムと1万6千kmの水路を築いた土木技師。工法、働く人への接し方、大洋丸での死、妻・外代樹、5月8日の追悼式、2017年の銅像損壊、そして植民地の事業としての評価まで

J-Times Editorial·2026年10月26日·2 min

J-Times Editorial

J-Times 編集部 / J-Times Editorial Team

2026年10月26日2 min6 閲覧
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八田與一(1886〜1942)は金沢出身の土木技師。日本統治下の台湾で1920〜1930年に烏山頭ダムと嘉南大圳を築き、15万haの農地に水を引いた。台湾では毎年5月8日に墓前で追悼式が開かれる。生涯と工法、植民地の事業としての評価を一次資料で整理する。

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八田與一とは — 台湾の烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師の生涯と、今も慕われる理由

答え(2026-10-25時点):八田與一(はった よいち、1886〜1942)は金沢出身の土木技師。日本統治下の台湾で、1920〜1930年に烏山頭ダムと嘉南大圳を計画・建設した。ダムのそばの墓前では、1946年から毎年5月8日に追悼が続いている。

本記事は1942年に亡くなった技師・八田與一についての記事です。近年の報道に出てくる同姓同名の人物とは関係ありません。

2026年5月8日、八田の没後84年の追悼式では、台湾の頼清徳総統が銅像に花を手向けました。金沢で生まれた一人の技師が、なぜ100年近くたった今も台湾で大切にされているのか。本記事では、金沢から嘉南平原までの生涯をたどり、ダムが何をもたらし、誰のための事業だったのかも含めて整理します。

空から見た台南の烏山頭ダム(珊瑚潭)。入り組んだ青緑色の湖に木々の茂る島が浮かび、桟橋に遊覧船が並ぶ。写真:交通部観光署(台湾)/ Wikimedia Commons / 政府網站資料開放宣告(出典表示)
空から見た台南の烏山頭ダム(珊瑚潭)。入り組んだ青緑色の湖に木々の茂る島が浮かび、桟橋に遊覧船が並ぶ。写真:交通部観光署(台湾)/ Wikimedia Commons / 政府網站資料開放宣告(出典表示)

八田與一は何をした人?

八田與一は、台湾南西部の嘉南平原に烏山頭ダムと嘉南大圳を設計・建設した技師。総延長約1万6千kmの水路で、約15万haの農地に水を届けた。工事は1920年から1930年まで。

金沢市の金沢ふるさと偉人館は、烏山頭ダムを「堰堤長1,273m という当時では東洋一の規模」と紹介し、給排水路の完成で嘉南平原は台湾一の穀倉地帯になったと説明しています。台湾の農業部(日本の農林水産省にあたる)も自らの機関誌で、1920年着工・1930年竣工、水路は1万6千km超、灌漑面積15万haと記しています。台湾では「嘉南大圳の父」と呼ばれています。

生まれ1886年(明治19年)2月21日、石川県金沢市今町
学歴第四高等学校、東京帝国大学 工科大学(1907年入学)
台湾へ1910年、24歳で台湾総督府の土木部技手に
主な仕事烏山頭ダムと嘉南大圳(1920〜1930年)
死去1942年5月8日、56歳。乗っていた大洋丸が米潜水艦に撃沈された
墓台南の烏山頭ダムのほとり。妻・外代樹と眠る

出典:金沢ふるさと偉人館「年譜」、台湾農業部(2023年・2024年)

どこで生まれ、どう育った?

八田與一は1886年2月21日、今の金沢市今町に、四郎兵衛の五男として生まれた(金沢ふるさと偉人館の年譜)。

今町尋常小学校、森下高等小学校、石川県立第一中学校を経て、1904年に第四高等学校へ。1907年に東京帝国大学工科大学の土木科に進み、1910年、24歳で台湾総督府の土木部技手になりました。台湾の農業部の記事も、同じ年と同じ職を挙げています。

生家は今も残っています。偉人館によれば国の登録文化財で、前庭には生誕地碑が立ち、向かいの花園小学校の校庭には台湾の実業家が金沢市に寄贈した胸像があります。

なぜ金沢の技師が台湾でダムを造ったのか?

台湾は1895年から1945年まで日本の統治下にあり、八田は総督府の技師として渡った。島内の調査を重ね、1917〜18年に嘉南平原の灌漑計画をまとめ、1920年からは水利組合の技師として工事を率いた。

嘉南平原は広く肥えた土地でしたが、東京都教育委員会の2017年の教材によれば、雨が5月から10月に集中し、排水も悪いため、洪水と干ばつを繰り返していました。台湾の農業部は、八田がこうした天気任せの「看天田」を灌漑で変えられると考え、1917年に「官佃渓埤圳計画」を出したと書いています。

計画が認められると、八田は総督府の職を辞し、1920年に設立された官田渓埤圳組合(のちの嘉南大圳組合)の技師になりました。1922年には工法の検討と大型機械の買い付けのためアメリカ・カナダ・メキシコを視察し、烏山頭出張所の所長として家族と現地へ移ります。堰堤の本工事は1926年に始まり、1930年にダムが完成しました(偉人館の年譜)。

烏山頭ダムと嘉南大圳はどれほどの規模か?

烏山頭ダムは堰堤長1,273m、高さ56m。貯水量は当初約1億5千万トン。このダムと北の濁水渓からの取水でまかなう水路は、総延長約1万6千kmに及んだ。

項目数字出典
堰堤長1,273m金沢ふるさと偉人館、nippon.com
高さ56m偉人館、行政院公報(2022年)
底幅/頂幅303m/9mnippon.com
貯水量約1億5千万トン(当初)。2022年の台湾の水庫分級表では総容量1億5,415万m³偉人館、行政院公報
灌漑面積約15万ha台湾農業部(2024年)、東京都教育委員会
水路約1万6千km偉人館、台湾農業部(2024年)
水源曽文渓の水を烏山嶺のトンネルで引き込む台湾農業部(2011年)、nippon.com

台湾の農業部の機関誌は、完成当時、嘉南大圳はアジア最大・世界で3番目の水利工事だったとしています。

なお、今の水路網の数字は資料によって違います。2026年の追悼式で頼総統は、水路総延長を8,810km、貯水量を7千万トン超と述べました。1930年の設計値ではなく、現在の水路や有効貯水量を数えたものとみられますが、何を数えた数字かは確認できていません。

セミハイドロリックフィル工法とは?

セミハイドロリックフィル(半水力式)工法は、土や石を両側に盛り、水を当てて細かい土を中央へ流し込み、真ん中に水を通さない粘土の層を作る土のダムの造り方。烏山頭ダムのコンクリートは全体の約0.5%だけ。

偉人館は、烏山頭で八田が取り入れた新しいことを3つ挙げています。1つ目がこの工法で、地震の多い台湾では当時最善の方法だったといいます。コンクリートは中心部の土台にだけ使い、その上に大量の土砂を盛り、水の力で粘土や細かい土を落ち着かせて堰堤を造ります。東京都教育委員会の教材はもう少し詳しく、玉石・栗石・砂利・砂・粘土の混ざった土を両側に盛って中央へ向けて水を放つと、玉石はその場に残り、細かいものほど中央へ運ばれ、コンクリートの芯の周りに粘土の不透水層ができる、と説明しています。台湾の農業部も2011年と2024年の記事でこの工法の名を挙げています。

2つ目は大型機械です。スチームショベルやエアダンプカーなど、当時ほとんど使われていなかった大型土木機械を47種類導入しました。3つ目が、働く人のための町です。

1920年代の絵はがき「臺灣嘉南大圳組合烏山頭堰堤敷地表土鑿光景」。むき出しの工事現場を線路と蒸気機関車が走る。撮影者不詳・秋惠文庫所蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
1920年代の絵はがき「臺灣嘉南大圳組合烏山頭堰堤敷地表土鑿光景」。むき出しの工事現場を線路と蒸気機関車が走る。撮影者不詳・秋惠文庫所蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

働く人にどう接したのか?

八田は家族と暮らせる町を現場に造り、工事で亡くなった人の名を日本人・台湾人の区別なく亡くなった順に碑に刻んだ、と日本側・台湾側の資料はそろって伝える。ただし、その多くは伝記や顕彰の資料に基づく話で、賃金の記録ではない。

  • 烏山頭の町:偉人館、nippon.com、東京都教育委員会の教材はいずれも、八田の「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えを紹介しています。宿舎のほか学校、病院、店、浴場、プール、テニスコートを造り、八田自身も工事中は家族とここで暮らしました。nippon.com は住宅68棟・200室以上、住民約1千人、通いを含めて2千人近くと書いています。
  • 事故:1922年12月、烏山嶺のトンネルでガス爆発が起き、多くの作業員が死傷しました。nippon.com は「死傷者50人以上」、東京都の教材は「50人が死亡、100人以上が負傷」と、数字は資料で異なります。
  • 1923年の解雇:関東大震災で補助金が削られ、作業員を大きく減らさざるを得なくなりました。nippon.com は約半数、東京都の教材は3分の1程度までと書きます。どちらも、八田は有能な人から先に辞めてもらい(再就職しやすいから)、再就職先を探し、工事が戻れば優先して雇い直すと約束した、と伝えています。東京都の教材は、この話が今も嘉南の人々に語り継がれていると記しています。
  • 殉工碑:nippon.com によれば、10年の工事で家族を含め134人が亡くなり、八田はダムの下に碑を建てて、日本人・台湾人の区別なく亡くなった順に名を刻みました。台湾の NOWnews も同じ人数と並べ方を報じています。

日本人と台湾人の待遇や賃金を比べた一次資料は見つからなかったため、本記事ではその点について書いていません。

嘉南大圳は台湾の農民のためか、帝国のためか?

その両方で、どちらに重きを置くかは今も研究者の間で議論がある。収穫は大きく増え、ある経済研究では農民の所得も上がった。一方で、日本向けの米と砂糖を増やす植民地政策の一部でもあり、農民は重い水租(水利費)を負い、作るものを自由に選べなくなった。

議論の中心は**三年輪作(三年輪灌)**です。ダムの水だけでは平原全体を毎年潤せないため、灌漑区域を3つに分け、稲(給水あり)、サトウキビ(植え付け期だけ給水)、雑作(給水なし)を1年ごとに回しました。東京都の教材はこれを乏しい水を分け合う八田の工夫として紹介し、台湾の農業部は灌漑の水を受けられる農家が3倍になったとしています。東京都の教材によれば、完成7年後の1937年には米の生産額が建設前の約11倍になり、日本へも輸出されました。

同じ仕組みを、批判的に見る立場もあります。

  • 当時の批判:経済学者の矢内原忠雄は『帝国主義下の台湾』(1929年)で、三年輪作と大圳は日本の糖業資本の利益にかなうものだと論じました(2006年の台湾の経済学者の論文と、2017年の台湾の書き手・江昺崙の評論が要約)。
  • 水租と農民:江昺崙の評論(想想論壇、風傳媒に転載)は、重い水租、1930年の約1千人の農民による抗議、払えなかった土地の競売を挙げています。日本の歴史研究者・清水美里の2024年の論文は、嘉南大圳の灌漑区域でも米と砂糖の対立(米糖相克)が起きていたこと、それが日本人対台湾人の二項対立ではなく、総督府土木局と嘉南大圳組合、製糖会社、台湾人エリートの三者の関係だったことを示しています。
  • 経済の計測:国立台湾大学の経済学者(古慧雯・吳聰敏ら、『經濟論文叢刊』2006年)は費用便益分析を行い、嘉南大圳は農民の所得を大きく押し上げ、製糖会社の利益への影響は小さかったと結論づけています。

2017年に銅像が壊されたあと、議論は表に出ました。『中國時報』の論評は、大圳で作られた米は台湾人が食べるためのものではなかったと書き、関鍵評論網(The News Lens)の論考は、銅像は偶像崇拝でも植民地主義の産物でもなく、台湾の人情の表れだと応じました。どちらも同じ事実を見ています。違うのは、どの事実に重みを置くかです。

八田與一はどう亡くなった?

八田與一は1942年5月8日、フィリピンへ向かう大洋丸が東シナ海で米潜水艦に撃沈され、56歳で亡くなった。

偉人館の年譜では「南方開発派遣要員」としての渡航で、台湾の農業部はフィリピンの綿花畑の灌漑調査のためだったと書いています。nippon.com は、同じ船で約1千人の技術者が亡くなったとしています。

妻・外代樹に何があったのか?

妻の八田外代樹(とよき)は、終戦から約2週間後の1945年9月1日、烏山頭ダムで自ら命を絶った。45歳だった。今は夫とともにダムのほとりに眠る。

外代樹は1917年に八田と結婚し、烏山頭の町で子どもたちを育てました。nippon.com と日本建設機械施工協会の機関誌(2007年)はともに1945年9月1日とし、ダムの放水口に身を投じたと書いています。台湾の農業部は「1945年8月」とし、夫のもとへ行きたいという遺書の言葉を伝えています。nippon.com は、その死は長く夫への殉死として語られてきたが、敗戦のなかでの深い苦しみによるものと見るほうが自然だろう、という筆者の考えを記しています。ここでは、敬意をもってそのままにとどめます。

烏山頭の八田與一像。片手を頭に当てて座る銅像の後ろに、木立の中の石の墓碑が見える。写真:Mrmarkertw / Wikimedia Commons / CC BY 4.0(2025年6月1日撮影)
烏山頭の八田與一像。片手を頭に当てて座る銅像の後ろに、木立の中の石の墓碑が見える。写真:Mrmarkertw / Wikimedia Commons / CC BY 4.0(2025年6月1日撮影)

なぜ台湾で尊敬されている?

水が今も流れているから。八田の設計した水路は100年近く嘉南平原を潤し、そこで暮らす人々が1946年に墓を建て、戦後は銅像を隠して守り、毎年5月8日に追悼を続けてきた。

  • 墓(1946年):東京都の教材によれば、嘉南の人々が1946年、銅像の後ろに日本式の夫婦の墓を建てました。nippon.com は1946年12月15日の建立で、墓碑は中華民国の暦で刻まれていると書いています。
  • 銅像(1931年、隠され、1981年に戻る):座った姿の銅像は八田の存命中の1931年に除幕されました。髪に手をやる姿は考えごとをするときの癖だったと言われます。東京都の教材によれば、戦争末期に金属供出で持ち出されたのち、戦後に地元の人々が見つけ、日本人の銅像が禁じられていた時代に隠し続け、1981年に台座を作り直して元の場所に戻しました。nippon.com も同じ経緯を伝え、水利組合が30年以上地下室に保管したと書いています。
  • 5月8日の追悼式:台湾の農業部によれば、嘉南の農民は1946年から毎年墓前で追悼を行い、嘉南農田水利会が1981年から毎年銅像の前で追悼式を開き、2020年10月に水利会が公的機関に移ってからは農業部農田水利署が主催しています。
  • 国のトップも:没後84年の2026年5月8日には、頼清徳総統が主祭を務めました。聯合報によれば、金沢市長や八田の孫を含む日本人280人余りと、台湾の関係者100人余りが参列。総統は「みんな八田與一を身内だと思っている」「水は田畑だけでなく、人の心にも流れている」と述べました。

尊敬は一枚岩ではありません。次の節のように、激しい反発もあります。それでも、農民、水利の職員、地元の人たちが80年にわたって墓と銅像を守ってきたことが、今も日台の人がこの墓の前で会う理由になっています。

2017年の銅像損壊では何があった?

2017年4月15日未明、烏山頭の八田與一像の頭部が切り落とされた。頭部は見つからず、奇美博物館にある同じ像から型を取って新しい頭部を作り、修復した像は没後75年の追悼式前日の5月7日に再び除幕された。

台湾の公共テレビ(PTS)は2017年6月、元台北市議と知人が器物損壊の罪で起訴されたと報じました。頭部がないと気づかれたのは4月16日です。台北タイムズによれば、元市議は八田の歴史的評価に異論があったと供述し、水利会は潜水士にダムを探させましたが頭部は見つからず、嘉南農田水利会と奇美博物館が修復しました。当時の台南市長だった頼清徳氏は像を守れなかったことを遺族に詫び、遺族は早い修復に感謝し、日台の関係は揺るがないと述べました。

八田與一紀念園区とは?

八田與一紀念園区は、烏山頭ダムの北側に、工事当時の職員宿舎と八田の家を復元した記念公園。2011年5月8日に開園した。

台湾の農業部によれば、園区は技師と家族のための宿舎を再現したもので、八田宅、市川・田中宅、赤堀宅、阿部宅の4棟が復元されています。台南市政府観光旅遊局によれば、2009年から2年かけて修復し、石川県の八田の生家を訪ねて参考にし、日本の大工の技術を取り入れて建てました。

空から見た八田與一紀念園区。芝生と木立の中に灰色の屋根の日本家屋が並び、そばにクレーのテニスコートがある。写真:Guanting Chen / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(2017年5月28日撮影)
空から見た八田與一紀念園区。芝生と木立の中に灰色の屋根の日本家屋が並び、そばにクレーのテニスコートがある。写真:Guanting Chen / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(2017年5月28日撮影)

烏山頭ダムへの行き方は?

最寄りは台湾鉄道 縦貫線の隆田駅。紀念園区まで道のりで約8km、タクシーで10分ほど。ダムと園区は台南市官田区にある。

烏山頭水庫風景区八田與一紀念園区
住所台南市官田区烏山頭里嘉南68-2号台南市官田区(ダム北岸)
時間(公表)8:00〜17:309:00〜17:00、水曜休み
料金(公表)全票 NT$200、半票 NT$120、優待 NT$40/60風景区と同じ
電話+886-6-6982103+886-6-6982103

時間・料金・電話は台南市政府観光旅遊局のページで2026年10月25日に確認

  • 鉄道とタクシー:台南駅や嘉義駅から台湾鉄道の各駅停車で隆田駅へ。OpenStreetMap の経路検索(routing.openstreetmap.de)では、隆田駅から園区まで車で8.2km・約10分、自転車で7.6kmです。
  • 5月8日:追悼式は農田水利署が主催し、台湾と日本の招待客が参列する公式の式典です。2026年は午後に行われました。
  • 金沢では:金沢ふるさと偉人館の常設展に八田のコーナーがあり、今町の生家は花園小学校の向かいにあります。

時間や料金は変わることがあり、隆田駅からの最新のバス時刻は確認できませんでした。出かける前に公式ページを確かめてください。

八田與一は今、日本と台湾をどうつないでいるか?

八田の生涯の両端にある金沢市と台南市は、没後84年の追悼式前日の2026年5月7日に「観光文化交流促進に関する合意書」を結び、友好都市になった。

台北駐日経済文化代表処が掲載した台湾の政府系ニュース(Taiwan Today、2026年8月20日)は、両市が八田技師の縁で以前から交流してきたと伝えています。台南市長も2026年の追悼式で合意に触れました。金沢市長は2023年と2026年の追悼式に参列しています。金沢では、偉人館の展示と花園小学校の「花園偉人館」が、地元の子どもたちに八田の話を伝えています。

日本と世界をつないだもう一人の人物については、三浦按針(ウィリアム・アダムス)とは — なぜ伊東で日本初の洋式帆船が造られたのかもあわせてどうぞ。

八田與一の物語から何を考えられるか?

事実は二つの方向を同時に指している。帝国の必要のために造られた植民地の事業であることと、その水で暮らす人々が今も技師の墓を守っていること。どちらも消さずに両方を抱えることが、いちばん誠実な覚え方かもしれない。

読み終えたあとに、いくつかの問いを置いておきます。

  • 造った国がなくなったあとも残る公共の施設は、誰のものでしょうか。烏山頭では80年間、台湾の農民と台湾の機関が墓を守ってきました。
  • 技師に感謝しながら、その技師が働いた仕組みを問うことはできるでしょうか。仕組みを批判しながら、そこにいた人を消さずにいられるでしょうか。農民の所得を測った経済学者も、水租への抗議を記録した人たちも、どちらも同じ歴史の一部です。
  • 日台の友好は、しばしば八田一人の物語として語られます。水路を守ってきた農民や、殉工碑の134人の物語も一緒に語ると、何が見えてくるでしょうか。

八田を覚えることは、一つの国の誇りの話というより、金沢と台南の多くの人が毎年5月、同じ水のほとりで顔を合わせ続けていることの話なのだと思います。

出典・確認日(すべて2026-10-25に確認)

文・J-Times 編集部(2026-10-25時点の情報)

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