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エルトゥールル号遭難事件とは — 1890年、串本・樫野の島民が69人を救った夜から、1985年テヘラン救出まで日本とトルコをつないだ人々

エルトゥールル号遭難事件とは — 1890年、串本・樫野の島民が69人を救った夜から、1985年テヘラン救出まで日本とトルコをつないだ人々

灯台守・区長・村長・名もない島民、救助を伝えた記者・野田正太郎、伝説と史実のあいだの山田寅次郎、1985年のトルコ航空機。犠牲者数の食い違い、「恩返し」は誰が語ったのか、慰霊碑・トルコ記念館・樫野埼灯台への行き方と9月16日の追悼式典まで

J-Times Editorial

J-Times 編集部 / J-Times Editorial Team

2026年10月27日30 min5 閲覧
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第3回 エルトゥールル号と樫野の人々 — 嵐の夜の手当てが、日本とトルコをつないだ

つなぐ人 — 日本と世界の物語 · 13分

番組のほかの回を聴く声は AI で作っています。内容は J-Times 編集部が確認しました。

1890年9月16日、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町の樫野崎沖で沈没し、灯台職員と大島の人々が生存者69人を助けた。死者数は出典により約500〜587人と分かれる。救助を伝えた人、山田寅次郎、1985年のテヘラン救出、慰霊碑と記念館への行き方を一次資料で。

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答え(2026-10-27時点):1890年(明治23年)9月16日の夜、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県串本町・紀伊大島の樫野崎沖で座礁・沈没した。灯台の職員2人と大島の村人が、岸にたどり着いた69人を手当てした。日本とトルコは今も、この出来事を両国の友好の原点と呼んでいる。

これが公式の要約で、間違いではありません。この記事では、その奥にいた人たちを追います。使った包帯の数まで日誌に書き留めた灯台守、嵐の翌朝に島の端から端へ使いを走らせた村長、事件をイスタンブールまで伝えた新聞記者、伝説の主人公になった若者、そして1985年にテヘランへ飛んだトルコの乗員たち。記録どうしが食い違うところ、美しい物語が史料より大きくなったところも、そのまま示します。

嵐の荒波の中を帆と蒸気で進むオスマン帝国の木造フリゲート艦エルトゥールル号を描いた油彩画。オスマン・ヌーリ・パシャ画、イスタンブール海軍博物館蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
嵐の荒波の中を帆と蒸気で進むオスマン帝国の木造フリゲート艦エルトゥールル号を描いた油彩画。オスマン・ヌーリ・パシャ画、イスタンブール海軍博物館蔵 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

絵:オスマン・ヌーリ・パシャ(1839〜1906)「日本へ向かうフリゲート艦エルトゥールル号の航海」イスタンブール海軍博物館蔵。Wikimedia Commons、パブリックドメイン

エルトゥールル号遭難事件とは?

エルトゥールル号遭難事件は、明治天皇への親善使節の任務を終えて帰る途中のオスマン帝国海軍の軍艦が、1890年9月16日21時30分ごろ、紀伊大島の樫野崎沖で沈んだ海難事故。助かったのは乗員のうち69人だけだった。

内閣府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」が2005年にまとめた報告書は、これを日本の海難史上はじめての大規模な外国船海難と位置づけています。串本町の説明によれば、建造から26年たった木造船は横浜を出た翌日に台風に遭い、昔から船乗りに恐れられた「船甲羅(ふなごうら)」の岩礁に打ち寄せられ、破れた船体から流れ込んだ海水で機関が爆発して沈みました。

船オスマン帝国海軍のフリゲート艦エルトゥールル号(木造・帆と蒸気)
特使オスマン海軍少将(オスマン・パシャ)。皇帝の勲章と贈り物を明治天皇へ
イスタンブール出港1889年7月14日
横浜着1890年6月7日
横浜出港1890年9月15日
遭難1890年9月16日21時30分ごろ、大島村(現・串本町)樫野崎沖
生存者69人(どの出典も一致)
死者約500〜587人(出典により異なる。後述)

出典:串本町「トルコとの交流 〜エルトゥールル号の遭難〜」、内閣府『1890 エルトゥールル号事件報告書』(2005年)災害概略シート・第2章

なぜオスマン帝国の軍艦が日本に来ていたのか?

オスマン帝国の皇帝アブデュルハミト2世が、1887年に小松宮彰仁親王がイスタンブールを訪れたことへの返礼として送った。串本町は、ヨーロッパ列強との不平等条約に苦しむ者どうしとして、日本との対等な条約締結を進める狙いもあったと説明している。

串本町によれば、オスマン少将の一行は明治天皇に謁見してトルコ最高の勲章と贈り物を捧げ、東京で3か月にわたり官民の歓迎を受けました。内閣府の報告書は、友好の物語ではあまり語られない点も書いています。航海には途中のイスラム教国の港で皇帝の権威を示す目的もあったこと、そしてコレラの発生で日本からの出発が遅れたことです。9月が台風の季節で、船も古いため、日本側は出発前の修理を勧めましたが、オスマン少将は帰国が遅れないよう予定どおり9月15日に出港した、と串本町は記しています。

樫野の人々はどうやって生存者を助けたのか?

生存者は崖下の岩場に泳ぎ着き、闇の中で唯一見えた樫野埼灯台の明かりを目指して崖を登った。灯台職員2人が夜通し手当てをし、翌朝からは区長、村長、医師、そして村人たちが救護を引き継いだ。

内閣府の報告書には、戦前に外務省の内藤氏が書き写した『樫野崎灯台日誌』が転載されています(原本は今では所在不明)。あの夜にいちばん近い記録です。

  • 9月16日22時15分。 当直の乃美権之丞のもとへ「外国人一名、肌体血染れにて」入ってきた。笛で同僚の瀧澤正浄を呼ぶ。男は「トルコ」と言うだけで言葉は通じず、船が沈む手まねをするばかりだった。続いて9人が来て、2人は自分たちの住まいで薬と包帯の手当てをし、小使いを区長のもとへ走らせた。
  • 9月17日5時50分〜7時30分。 さらに53人が灯台にたどり着く。うち重傷は6人。日誌は使った物を一つずつ書いている。官物の豚脂・ガーゼ・硼酸・包帯・シーツ。そして2人の私物から、さらし木綿、白米、薪、半紙。
  • 合計。 灯台に来た者63人、樫野浦に着いた者6人、合わせて69人。

報告書によれば、生存者はみな自力で大島に上陸した人たちで、遭難後に海や海岸で生きて見つかった人はいませんでした。

樫野の区長・齋藤半之右衛門は、歩ける25人を大龍寺に移しました。大島村の村長・沖周(おき あまね)は17日10時30分に知らせを受けると、医師2人を先に向かわせ、もう1人にも出張を頼み、自分は巡査と書記を連れて1時間後には樫野に着いています。郡役所と、電信のある田辺(大島から使いの足で約5時間)へ使者を出して県に知らせ、その晩には東京の海軍省と呉鎮守府にも打電させました。台風を避けて大島港にいた汽船・防長丸の船長が英語を話せたので、遭難したのがオスマン帝国の軍艦だと分かると、沖村長は自分の判断で生存者の士官2人を神戸へ送り出します。沖村長が10月1日まで書き残した日記は今、トルコ記念館にあり、報告書はこれを「第一級の災害教訓資料」と呼んでいます。

村人たちは何日も海岸と海で捜索を続け、10月7日までに大島と対岸で251体の遺体を検死・埋葬しました。オスマン・パシャの遺体は最後まで見つかりませんでした。nippon.com(2015年)は、島民が非常用の食料を出して救護したと書いています。救助をめぐっては、本や映画でもっと劇的な話も広く語られていますが、本稿が確かめた一次記録(灯台日誌・沖村長の日記の転載)には見当たらなかったので、ここには書きません。

助けは国境もこえていました。たまたま神戸にいたドイツの軍艦ウオルフ号が19日に大島へ向かい、日本の軍艦・八重山より先に、生存者の大半を20〜21日に神戸へ運んでいます。報告書は、これを政治的な打算ではなく、海の男どうしの救難の慣習とみています。

紀伊大島・トルコ記念館の直下の海岸。青い海にとがった岩と岩礁が点在する。エルトゥールル号が乗り上げた場所。写真:Opqr / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(2014年1月1日撮影)
紀伊大島・トルコ記念館の直下の海岸。青い海にとがった岩と岩礁が点在する。エルトゥールル号が乗り上げた場所。写真:Opqr / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0(2014年1月1日撮影)

写真:Opqr(2014年)。Wikimedia Commons、CC BY-SA 3.0。投稿者によれば、画面奥中央の岩礁に船が乗り上げた。

エルトゥールル号で助かった人は何人? 亡くなった人は?

助かったのは69人で、これはどの出典も同じ。亡くなった人の数ははっきりせず、串本町と和歌山県は587人、外務省は「600名近く」と581人の両方を使い、内閣府の報告書は「約500名」としている。乗っていた人数そのものが確定できないためだ。

出典死者生存者
串本町(慰霊碑の案内)乗組員656人のうち587人69人
和歌山県(国際交流のページ、県広報誌「和」2025年)587人69人
外務省 外交史料館 Q&Aオスマン・パシャを含む「600名近く」69人
外務省(2013年の会談資料)、nippon.com(2024年)581人69人
和歌山県議会の決議(2010年)乗組員「六百数十名」のうち69人
内閣府 報告書(2005年)「約500名」。正確な数は不明69人
沖村長が兵庫県知事に宛てた依頼書(1890年9月17日、第一報)乗組650人のうち580人—

内閣府の報告書は理由を説明しています。イスタンブール出港時の乗員数がオスマン側の資料によってまちまちであること、日本滞在中に少なくとも13人がコレラと肺結核で亡くなっていること、そして日本を出たときの乗員数を日本側が正確に把握していたという資料が見つかっていないこと。本稿では「生存者69人」を事実として書き、死者数は出典とともに示します。

生存者はどうやってトルコに帰ったのか?

生存者は神戸で宮内省の侍医や日本赤十字社の手当てを受け、日本海軍の軍艦「比叡」「金剛」で送り届けられた。両艦は1890年10月11日に神戸を出て、翌1891年1月初めにイスタンブールに着いた。

串本町によれば、明治天皇は侍医を、皇后は看護師13人を神戸に遣わしました。内閣府の報告書によると、政府が2隻の派遣を決めたのは9月26日。『時事新報』をはじめ新聞各紙が自国の軍艦での送還を求めたのがきっかけで、費用12万6,487円60銭が予備金から出されました。報告書は動機も率直に書いています。新聞の論調にはヨーロッパに対する日本の体面への意識があり、海軍大臣が両艦長に与えた訓令は、目的の筆頭に少尉候補生88人の練習航海を挙げ、生存者の送還は二番目でした。候補生の中には、のちの秋山真之もいました。

日付は、公的な記録の間でも少しずつ違います。

  • 内閣府の報告書: 10月5日に品川を出て、11日に生存者を乗せて神戸を出港。ダーダネルス海峡付近でイスタンブール入港を断られ、近くの湾でオスマン帝国の軍艦に生存者を引き渡した。その後、特別に許可を得て1891年1月2日にイスタンブールに入港。
  • 串本町: 生存者は「10月5日」に帰国の途につき、1891年1月2日にイスタンブールに入港。
  • 外務省 外交史料館: 10月11日に神戸を出港し、ポートサイドで生存者を引き渡し、1891年1月1日にイスタンブール到着。

救助の知らせをトルコに伝えたのは誰?

全国の新聞が義援金を集め、時事新報の記者・野田正太郎が比叡に乗ってそれをイスタンブールまで届けた。野田は皇帝に請われて約2年とどまり、士官学校で日本語を教え、内閣府の報告書によれば、確かめられる限りで最も早い日本人のイスラーム改宗者になった。

報告書は、普通の人々の動きも細かく描いています。『東京日日新聞』が義援金募集を始めたのは、9月19日の号外を見た一人の男性が、その日の夕方に新聞社を訪れて3円を寄附したのがきっかけでした。禁酒運動の団体、音楽会を開いた東京の青年会、東京や神戸で施餓鬼を営んだ寺院も募金に加わります。『時事新報』は4,000円を超える義援金を集め、他社が送金方法に戸惑うなか、為替にして野田に託し、比叡に便乗させました。野田の便乗記は紙面で好評を博し、1891年6月にはオスマン帝国の新聞にも紹介されています。

それなのに、野田はすぐに忘れられました。報告書の筆者で東洋大学の三沢伸生氏は、野田が2年で帰国して間もなく若くして亡くなったこと、その功績が日本で正当に紹介されたのは2003年の展覧会が初めてだったことを書いています。国と国をつないだ人が、いつも歴史に名を残すわけではない。その静かな例です。

山田寅次郎は何をした人? どこまでが史実か

山田寅次郎(1866〜1957)は、エルトゥールル号の義援金を東京で集め、1892年4月にイスタンブールに渡って日本の品を扱う店を開き、通算約20年を彼の地で過ごした人物。帰国後は日本とトルコの貿易団体を率い、茶道の家元も継いだ。

群馬県立図書館が孫による2023年の評伝を紹介した資料によれば、寅次郎は1866年(慶應2年)、沼田藩の家老職・中村家の次男に生まれ、15歳で茶道宗徧流の家元・山田家の養子となり、のちに家元を継いで山田宗有の名でも活動しました。内閣府の報告書は、1890年に彼が個人で新聞に募金広告を出し、東京で演説会や2日続けての演芸会を開いて義援金を集めたこと(金額は不明)、そして1892年4月にイスタンブールに着いたことを記しています。野田の助けでオスマン帝国の要人に会い、士官学校で野田の助手を務め、中村商店を構えました。

寅次郎は数多くの再話の主人公です。同じ報告書は「伝説のひと山田寅次郎、忘却のひと野田正太郎」というコラムで、よく語られる話を史料と照らしています。

  • 「アタチュルクを教えた」。 アタチュルクの経歴を調べた複数の研究者によれば、彼が士官学校で日本語を習った事実は見当たらない。ある日本人が著書に教え子だと書いてしまった、とコラムは書く。
  • 「日本人初のイスラーム教徒」。 本人の自伝・評伝はそう語っていない。野田と取り違えた誤りだという。
  • 「約5,000円の義援金を手渡した」。 この額は日本からの義援金の総額である可能性が高く、山田が集めた額はずっと少なかったとみられる。
  • 確かなこと。 イスタンブールを訪れた多くの日本人が彼の世話になったのは間違いない。日露戦争の際、在オーストリア公使に情報を電信した記録もあるが、その価値は分からない。

報告書によれば、第一次世界大戦を機に帰国した寅次郎は、1926年(大正15年)11月に大阪で設立された日土貿易協会の理事長として実質的な中心人物になり、1930年にはアタチュルクと会見しています。彼の物語は語る価値があります。それは、あったとおりに語ってこそだと思います。

緑の葉で飾られたアーチと三日月と星の旗のもとで行われる追悼の式典を写した古写真。木の標柱に「土耳其軍艦遭難者兆域」とある。撮影者不明 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン
緑の葉で飾られたアーチと三日月と星の旗のもとで行われる追悼の式典を写した古写真。木の標柱に「土耳其軍艦遭難者兆域」とある。撮影者不明 / Wikimedia Commons / パブリックドメイン

写真:撮影者不明。Wikimedia Commons、パブリックドメイン(PD-Japan-oldphoto)。Commons は1890年としているが、どの式典かは特定できていない。

慰霊は串本でどう受け継がれてきたのか?

遭難の翌年2月に地元の有志が墓地に碑を建て、1928年8月に日土貿易協会が最初の大きな追悼祭を開き、1937年6月3日にはアタチュルクの決定による今の慰霊碑が除幕された。それ以来、串本町は第二次世界大戦中の中断をはさみ、トルコと共催で5年ごとに慰霊の大祭を続けている。

  • 1891年。 遺体が葬られた樫野崎の地に、地元有志が「土国軍艦遭難之碑」を建てた(串本町)。
  • 1893年。 オスマン帝国から大島村へ3,000円相当の謝礼金が届いた。知事は、村人にそのまま分けるのではなく公債を買って村の基本財産にするよう指示した(内閣府報告書)。
  • 1928〜1929年。 寅次郎が中心となった日土貿易協会の主催で、1928年8月に追悼祭が開かれた(串本町は6日、報告書は5日とし「日程の根拠は不明」と注記)。1929年6月3日には昭和天皇が樫野に行幸し、慰霊碑に会釈を賜った。
  • 1937年。 昭和天皇の参拝を知ったアタチュルクが墓地の大改修と新しい慰霊碑を決め、和歌山県が設計・施工を担って1937年6月3日に除幕された(串本町)。報告書は、陸軍や貿易団体が深く関わったこと、そしてこのころから遭難が災害の教訓としてより、外交や経済の礎として語られ始めたことを指摘している。
  • 戦争。 串本町によれば、慰霊は第二次世界大戦中に一時中断した。報告書は、トルコが1945年1月に対日国交断絶を決め、2月23日に日本に宣戦布告したことも記録している。友好は途切れなかったのではなく、結び直されたのだ。
  • 戦後。 1974年6月3日、トルコ記念館の竣工式が行われた(報告書)。1972年には樫野と同じ碑がメルシン市に建てられ、串本町議会はヤカケント町(1964年)、メルシン市(1975年)との姉妹都市縁組を決議し、正式な調印はそれぞれ1997年、1994年に交わされた(串本町)。
樫野崎のエルトゥールル号殉難将士慰霊碑。芝生の上の階段の奥に、灰色の石のオベリスク形の碑が立つ。写真:Motokoka / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(2010年5月4日撮影)
樫野崎のエルトゥールル号殉難将士慰霊碑。芝生の上の階段の奥に、灰色の石のオベリスク形の碑が立つ。写真:Motokoka / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(2010年5月4日撮影)

写真:Motokoka(2010年)。Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0

1985年、テヘランで何があったのか?

1985年3月、イラン・イラク戦争のさなか、イラクがイラン上空のすべての航空機を攻撃対象にすると発表した。テヘランの日本人は外国の航空会社に乗れず、日本からの救援機も来なかった。日本側の働きかけを受け、トルコのオザル首相の決断でトルコ航空の特別機が派遣され、脱出を望んだ邦人のほぼ全員が期限までにイランを出た。

これは外務省が2013年、安倍首相が救援機のパイロットの逝去に弔意を述べた際の資料でまとめた経緯です。外務省は脱出を希望した邦人を約250人としています。他の記録はこうです。

出典書いていること
外務省(2013年)邦人約250人が脱出を希望。外国の航空会社は自国民を優先。オザル首相の決断で特別機。ほぼ全員が期限までに脱出
首相官邸(2006年1月)小泉首相がイスタンブールで元トルコ航空のアリ・オズデミル機長に謝意。日本政府の要請に応じ、在テヘランの邦人約250人を救出した特別便の機長
串本町3月17日にイラクが「48時間後」の攻撃を声明。日本からの救援機は安全確保を理由に見送り。トルコの救援機2機で日本人215人全員が脱出。期限のわずか1時間前
駐日トルコ共和国大使館(大使の寄稿、2025年)トルコはトルコ航空機で日本人215人をテヘランから避難させた。友好の歴史の「もう一つの節目」
Aviation Wire(2015年)救援機は DC-10。トルコ航空は在イラン日本大使やイラン政府と協力し、日本人215人を救出
和歌山県議会(2010年)2機のトルコ航空機が「百数十名」の邦人を救出

数字の違いは、脱出を希望した人数を数えているか、トルコ機に乗った人数を数えているかの違いも一因とみられます。便の正確な日時は2つの出典で確かめられなかったので、本稿では書きません。

1985年の救出は「恩返し」だったのか? 誰がそう語ったのか

そう語る人は多く、トルコの外交官の言葉としても紹介されている。ただ、本稿が確かめた公的な記録はもっと慎重で、外務省は「日本側関係者からの働きかけ」とオザル首相の決断を挙げ、トルコ大使館は「もう一つの節目」と呼んでいる。

誰が何と言ったかを並べます。

  • 串本町は公式サイトの見出しを「1985年、トルコ共和国の恩返し」とし、当時の駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏の言葉として次を紹介しています。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史の教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです。」よく検索される「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」という一文も、同じページの見出しにあります。ただし、大使の発言の日付や初出は書かれておらず、本稿でも見つけられませんでした。
  • 岩手県国際交流協会が2013年に掲載した、イスタンブール在住の日本人によるレポートは、救援機を飛ばしたオルハン・スヨルジュ機長の葬儀に触れ、当時の在イラン日本大使がトルコ大使に助けを求めると「エルトゥールル号の遭難事件の恩は忘れていません」と快諾された、と書いています。これは伝聞の記録です。
  • 和歌山県議会(2010年)の決議は、救出劇の背景に両国の親密な友好関係があった「と言われている」と書くにとどめています。
  • 外務省(2013年)と首相官邸(2006年)は、日本からの要請とトルコの決断を記し、エルトゥールル号を理由としては挙げていません。

「恩返し」の物語がなぜこれほど強くなったのかを考える手がかりも、公的な資料にあります。和歌山県立文書館の教材は、1985年の救出以降に、エルトゥールル号の救助が両国友好のはじまりとして幅広い人々に知られるようになったと書いています。2005年の内閣府報告書は、この遭難がいつしか美談として語られるようになり、NHK「プロジェクトX」でも1985年のトルコ航空チャーター機の話に関連して取り上げられたと記したうえで、客観的な事実を確かめないまま伝説として広まることに「一抹の危惧」を示し、ただ美談を繰り返すのでなく真実を掘り起こして相互理解を深めることが大切だ、と結んでいます。

どちらも本当でありうる、と私たちは考えます。その場にいた人々は、95年をこえて感謝が届いたと感じた。記録は、二つの政府と大使館と航空会社の乗員が、切迫した状況で決断を重ねた姿も残している。両方を手放さないことが、危険を引き受けたトルコの乗員を含め、関わった全員への敬意になるはずです。

その後、日本とトルコはどう助け合ってきたのか?

両国は1924年に国交を結び、2024年に100周年を迎えた。近年は互いの大地震のたびに支え合い、串本町も繰り返しトルコへの義援金を集めている。

駐日トルコ大使の2025年の寄稿は、国交の始まりを1924年とし、近年の大地震で示された相互の連帯に触れています。2023年2月のトルコ南東部地震では、串本町が同年2月7日から9月16日までに3,121万6,503円の義援金を集め、全額を駐日トルコ共和国大使館に拠出しました(串本町)。2020年のイズミル県地震でも募金をしています。135周年の2025年8月には、和歌山県知事と串本町長がトルコを訪れ、防災と文化理解のための青少年交流の覚書を結んだ、と外務省が紹介しています。日本の防災の知恵については日本の災害対策はなぜ世界を救えるのかもどうぞ。

慰霊碑・トルコ記念館・樫野埼灯台への行き方は?

3か所とも紀伊大島の東端、樫野にまとまっている。JR串本駅からバスで37分、タクシーで20分。くしもと大橋を渡って島に入る。

トルコ記念館トルコ軍艦遭難慰霊碑樫野埼灯台樫野埼灯台旧官舎
所在地串本町樫野1025-26串本町樫野串本町樫野1006-1串本町樫野1006-1
時間(公表値)9時〜17時9時〜17時園地は見学可・灯台内部は非公開9時〜17時
休み(公表値)年中無休(下の注を参照)——水・木曜日(年末年始などに臨時休館あり)
料金(公表値)大人500円、小・中・高校生250円。15名以上の団体は400円/200円。障がい者手帳の提示で半額無料無料100円(小・中・高校生を除く)
電話0735-65-0628——0735-65-8515

時間・料金・所在地は串本町の観光ページ(2026年10月27日確認)。注:和歌山県の広報誌「和」(2025年)のページは、トルコ記念館について「年中無休」と「休館日 木曜日(夏休み期間無休)」の両方を載せている。平日に行くときは記念館に電話で確かめてほしい。

  • 電車で。 串本駅はJRきのくに線。串本町によれば、新大阪から特急くろしおで約3時間30分〜。東京からは羽田から南紀白浜空港へ約80分、そこからバスか電車で。
  • 町内のバスで。 串本町コミュニティバス「大島線」が樫野灯台まで毎日運行。運賃は1乗車200円(2026-10-27時点)。本数が少ないので、町の時刻表を先に見ておくこと。
  • 車で。 トルコ記念館の近くに無料駐車場(84台)。くしもと大橋は1999年9月8日に開通し、本土と大島を結んでいる。
  • 現地で。 慰霊碑は遭難現場の船甲羅の岩礁を真下に見下ろす丘に立つ。イギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で1870年に点灯した樫野埼灯台を、串本町は日本最古の石造り灯台と紹介している。灯台の中には入れないが、らせん階段で上に登れる。隣の旧官舎は、1890年の夜に生存者が最初に手当てを受けた場所でもあり、国の登録有形文化財で内部も見学できる。
石の門柱のあいだの小道の先に立つ白い樫野埼灯台と、右手の石造りの旧官舎。写真:Motokoka / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(2010年5月4日撮影)
石の門柱のあいだの小道の先に立つ白い樫野埼灯台と、右手の石造りの旧官舎。写真:Motokoka / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0(2010年5月4日撮影)

写真:Motokoka(2010年)。Wikimedia Commons、CC BY-SA 4.0

エルトゥールル号の追悼式典はいつ?

串本町は遭難の日の9月16日に慰霊碑の前で追悼式典を開いている。2026年は9月16日(水)の午前11時から正午ごろまでで、町は「どなたでも参列いただけます」と案内した。2027年の式典は未発表(2026-10-27時点)。

  • 2026年(遭難から136年)。 串本町の案内では、2026年9月16日(水)11時〜12時(予定)、樫野崎トルコ軍艦遭難慰霊碑前。黙祷、両国の国歌斉唱、田嶋勝正町長の式辞、駐日トルコ共和国大使館の武官による追悼の辞、献花、追悼歌斉唱など。
  • 2025年(135年)。 和歌山県によれば、9月16日に慰霊碑の前で式典が行われ、トルコの駐日大使、串本町長、地元住民らが多数参列した。
  • 5年ごとの大祭。 串本町は、トルコ共和国と共催で5年ごとに慰霊の大祭を開いているとしている。130年の2020年は9月16日の式典をYouTubeでライブ配信した。
  • 2027年。 未発表(2026-10-27時点)。2027年9月16日は木曜日。夏の終わりに串本町の「国際交流」のページを確かめてほしい。

この物語から何を受け取れるか?

嵐の夜、貧しい島の人々は、言葉の通じない見知らぬ人を助け、何を差し出したかを正確に書き残した。その夜の上に、のちに国と国が友好や政策や伝説を築いた。誠実に覚えておくとは、その優しさと、周りの歴史の両方を手放さないことだと思う。

記録は、村人と灯台守に対してすでに十分に温かく、話を盛る必要はありません。同時に記録は、どの段階にも国の思惑があったことを示しています。候補生の練習航海を先に置いた海軍、ヨーロッパへの体面を気にした新聞、陸軍と貿易団体が関わった1937年の碑、トルコが日本に宣戦布告した戦争。それでも友好が続いたのは、両国の人々がそのたびに、つながることを選び直してきたからでしょう。

持ち帰ってほしい問いをいくつか。

  • 樫野崎の灯台守は、血まみれの男が誰なのか知りませんでした。分かっていたのは、助けが要るということだけです。国籍を問わず、見知らぬ人にそう応えるには、今の私たちに何が要るでしょうか。
  • 野田正太郎はほとんど忘れられ、山田寅次郎は伝説になりました。私たち自身の国の物語で、忘れてきた人、大きくしすぎた人はいないでしょうか。
  • 1985年が単なる「恩返し」ではなく、二つの国の人々がそれぞれ助けることを選んだ出来事だったとしたら、物語は小さくなるでしょうか、それとも大きくなるでしょうか。

日本と世界をつないだ人々については、八田與一 — 台湾の烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師と三浦按針(ウィリアム・アダムス)と伊東の洋式帆船もあわせてどうぞ。

よくある質問

エルトゥールル号で助かった人は何人?

69人。樫野崎灯台日誌には、灯台に来た生存者63人と樫野浦に着いた6人が記録されており、本稿が確かめた日本・トルコの出典はすべて69人としている。

亡くなった人は何人?

出典によって違う。587人(串本町・和歌山県)、581人(外務省2013年・nippon.com 2024年)、「600名近く」(外務省 外交史料館)、「約500名、正確な数は不明」(内閣府報告書2005年)。

「エルトゥールル号の借りを返しただけです」は誰の言葉?

串本町の公式サイトにある見出しの一文で、同じページは、より長い発言を当時の駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏の言葉として紹介している。発言の日付や初出は確認できなかった。

アタチュルクは山田寅次郎から日本語を習ったの?

その証拠は見つかっていない。内閣府の報告書(2005年)は、アタチュルクの経歴を調べた複数の研究者が、彼が士官学校で日本語を習った事実は見当たらないとしていると書く。

トルコ記念館はどこにあって、入館料はいくら?

串本町樫野1025-26。慰霊碑と灯台のすぐそば。2026-10-27時点で町の案内は9時〜17時、大人500円(小・中・高校生250円)。

樫野埼灯台には登れる?

灯台の内部は非公開だが、串本町によれば、併設のらせん階段で上に登れる。隣の旧官舎は見学できる(水・木曜休館、100円)。

追悼式典はいつ?

毎年9月16日に樫野崎の慰霊碑の前で行われている。2026年は9月16日(水)に開かれた。2027年の日程は未発表(2026-10-27時点)。

エルトゥールル号の映画はある?

ある。1890年の遭難と1985年のテヘラン救出を描いた日本・トルコ合作映画『海難1890』が2015年12月に全国公開された(串本町)。史実をもとにしたドラマで、記録映画ではない。

出典と確認日(2026-10-27)

J-Times 編集部(2026-10-27時点の情報)

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J-Times 編集部
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