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第3回 エルトゥールル号と樫野の人々 — 嵐の夜の手当てが、日本とトルコをつないだ

つなぐ人 — 日本と世界の物語

第3回 エルトゥールル号と樫野の人々 — 嵐の夜の手当てが、日本とトルコをつないだ

13 分

1890年、嵐の夜。樫野埼灯台にたどり着いた、言葉の通じないトルコの船乗りたちを、灯台守と島の人々はどう助けたのか。灯台日誌の記録、知らせを運んだ記者・野田正太郎、伝説と史実のあいだの山田寅次郎、1985年のテヘラン救出と「恩返し」を誰が語ったのかまで、ケンとキョウコがたどります。

この番組の声は AI で作っています。

番組メモ

  • 1890年9月16日、エルトゥールル号の遭難。灯台日誌が残した救護と、生存者69人
  • 野田正太郎・山田寅次郎、1985年のテヘラン救出。資料で割れる数字はそう伝えています

記事で読む(写真・出典つき)

エルトゥールル号遭難事件とは — 1890年、串本・樫野の島民が69人を救った夜から、1985年テヘラン救出まで日本とトルコをつないだ人々

この番組について

この番組の声は AI(ElevenLabs Eleven v4)で作っています。内容は J-Times 編集部が公式の情報と公開記事の出典で確認したものです(2026年10月27日時点)。テーマ曲: 「むすび」高橋高(アルバム『直霊 ─ NAOHI ─』)。BGM: 高橋高(Suno で制作)。J-Times は Jon&Coo Inc. が運営しています。

台本(文字起こし)

番組の会話をそのまま文字にしたものです。声は AI で作っています。

ケン:1890年、9月16日の夜。和歌山県の紀伊大島。樫野埼灯台の当直の部屋に、ひとりの男が、血まみれで入ってきました。

ケン:言葉は、通じません。男は、トルコ、とだけ言って、船が沈む手まねを、繰り返すばかりでした。

キョウコ:嵐の夜に、言葉の通じない人が、血まみれで……。

ケン:灯台の職員は、2人。その夜から、彼らと島の人たちが、何をしたのか。今日は、その記録を、たどっていきます。

ケン:J-Times のポッドキャスト、つなぐ人。日本と世界の物語。語り手のケンです。

キョウコ:聞き手のキョウコです。この番組の声は、AIで作っています。お話の中身は、J-Times 編集部が、当時の記録や、国と町の公式の資料で確かめたものです。

ケン:第3回は、エルトゥールル号と、樫野の人々。問いは、これです。嵐の夜の手当てが、どうして、日本とトルコをつなぐことになったのか。

キョウコ:エルトゥールル号って、トルコの船ですよね。なんで日本に来ていたんですか?

ケン:当時の、オスマン帝国の軍艦です。1887年に、日本の小松宮彰仁親王がイスタンブールを訪れました。その返礼として、皇帝アブデュルハミト2世が、明治天皇への使節を送ったんです。

ケン:串本町は、ヨーロッパの強い国々との、不平等条約に苦しむ者どうしとして、日本と対等な条約を結ぶ狙いもあった、と説明しています。

キョウコ:同じ悩みを持つ国どうし、だったんですね。

ケン:一行は明治天皇に会い、東京で3か月にわたって歓迎を受けました。そして1890年9月15日、横浜を出港します。

ケン:9月は、台風の季節。船は、建造から26年たった木造船でした。日本側は出発前の修理を勧めましたが、帰国が遅れないよう、予定どおりに出港した、と串本町は記しています。

ケン:翌日、船は台風に遭い、昔から船乗りに恐れられていた、船甲羅という岩礁に打ち寄せられます。破れた船体から流れこんだ海水で、機関が爆発して、沈みました。夜の9時半ごろのことです。

キョウコ:助かった人は……。

ケン:69人。この数字は、どの資料も同じです。ただ、亡くなった人の数は、資料によって違います。串本町と和歌山県は587人。外務省は、600名近く、とも、581人、とも書いています。内閣府の報告書は、約500名、正確な数は不明、としています。

キョウコ:どうして、そんなに違うんですか?

ケン:乗っていた人数そのものが、確かめられないからです。報告書によれば、出港のときの人数は、トルコ側の資料でもまちまちで、日本にいるあいだにも、少なくとも13人が病気で亡くなっていました。

キョウコ:わからないことは、わからない、と言う。それも、亡くなった人への誠実さ、なんですね。

ケン:そう思います。では、あの夜に戻りましょう。生存者は、崖の下の岩場に泳ぎ着いて、暗闇の中で、ただひとつ見えた灯台の明かりを目指して、崖を登りました。

ケン:灯台には、当直の記録が残っていました。樫野崎灯台日誌です。原本は今、所在がわかりませんが、戦前に書き写されたものが、内閣府の報告書に載っています。あの夜に、いちばん近い記録です。

ケン:夜の10時15分。当直の職員のもとに、最初の男が来る。笛を吹いて、もうひとりの同僚を呼ぶ。続いて9人。2人は、自分たちの住まいで、薬と包帯で手当てをして、区長のもとへ、使いを走らせました。

ケン:夜が明けると、さらに53人が、灯台にたどり着きます。重い怪我の人は6人。そして日誌は、使った物を、ひとつずつ書き留めているんです。

キョウコ:使った物?

ケン:灯台の備品からは、豚脂、ガーゼ、硼酸、包帯、シーツ。そして、2人の私物から。さらし木綿。白米。薪。半紙。

キョウコ:自分たちの、お米まで……。

ケン:灯台に来た人が63人。樫野の浦に着いた人が6人。あわせて、69人です。

ケン:朝になると、救護は、島の人たちに引き継がれます。樫野の区長は、歩ける25人を、大龍寺に移しました。

ケン:大島村の村長、沖周は、知らせを受けると、医師を先に向かわせ、自分も1時間後には樫野に着いています。電信のある田辺へ使いを出して県に知らせ、その晩には、東京の海軍省にも、知らせを打たせました。

キョウコ:一晩で、島から、東京まで。

ケン:村の人たちは、何日も、海岸と海で捜索を続け、10月7日までに、251人の遺体を葬りました。沖村長の日記は、今、トルコ記念館にあって、報告書は、これを、第一級の災害教訓資料、と呼んでいます。

ケン:ひとつ、お伝えしておきたいことがあります。この救助には、本や映画で、もっと劇的な話も広く語られています。でも、J-Times が確かめた一次記録には、見当たらないものもあったので、この番組では話しません。

キョウコ:記録だけで、もう十分に、温かいですもんね。

ケン:ほんとうに。助けは、国境も越えました。たまたま神戸にいたドイツの軍艦が大島へ向かい、生存者の大半を神戸へ運んでいます。報告書は、これを、政治的な打算ではなく、海の男どうしの救難の慣習とみています。

ケン:生存者は神戸で手当てを受け、日本海軍の軍艦、比叡と金剛で、トルコへ送り届けられました。翌年の1月はじめに、イスタンブールに着いています。日付は、資料によって1月1日と2日に分かれます。

ケン:報告書は、ここでも率直です。海軍大臣が艦長に出した命令は、目的の1番目に、少尉候補生の練習航海を挙げていて、生存者の送還は、2番目でした。

キョウコ:きれいな話だけじゃ、ないんですね。

ケン:そして、このとき、救助の知らせをトルコまで運んだ人がいます。新聞、時事新報の記者、野田正太郎です。

ケン:全国の新聞が、義援金を集めていました。東京日日新聞の募金は、号外を見たひとりの男性が、その日の夕方に新聞社を訪れて、3円を寄附したのがきっかけだったそうです。

ケン:時事新報は、4,000円を超える義援金を集めて、野田に託し、比叡に乗せました。野田は皇帝に請われて、およそ2年イスタンブールにとどまり、士官学校で日本語を教えました。報告書によれば、確かめられる限りで、最も早い、日本人のイスラーム改宗者です。

キョウコ:そんな人が、いたんですね。初めて聞きました。

ケン:野田は、帰国して間もなく、若くして亡くなり、その仕事が日本できちんと紹介されたのは、2003年の展覧会が初めてだったそうです。国と国をつないだ人が、いつも、歴史に名を残すわけではない。

キョウコ:山田寅次郎の名前は、聞いたことがあります。

ケン:寅次郎も、義援金を東京で集め、1892年にイスタンブールに渡って、日本の品を扱う店を開いた人です。通算で、およそ20年を、彼の地で過ごしました。

ケン:ただ、寅次郎には、伝説もたくさんあります。アタチュルクに日本語を教えた、という話は、研究者の調べでは、その事実は見当たらない。日本人初のイスラーム教徒、という話も、野田との取り違えだ、と報告書は書いています。

ケン:それでも、イスタンブールを訪れた多くの日本人が、彼の世話になったのは、確かです。物語は、あったとおりに語ってこそ、だと思います。

キョウコ:そして、1985年ですね。

ケン:1985年3月。イラン・イラク戦争のさなか、イラクが、イランの上空の、すべての飛行機を攻撃の対象にすると発表しました。テヘランにいた日本人は、外国の航空会社に乗れず、日本からの救援機も、来ませんでした。

ケン:外務省によれば、日本側の働きかけを受けて、トルコのオザル首相が決断し、トルコ航空の特別機が飛びました。脱出を望んだ日本人の、ほぼ全員が、期限までにイランを出ています。人数は、串本町とトルコ大使館は215人、外務省は、約250人としています。

キョウコ:それが、エルトゥールル号の、恩返しだった、と聞いたことがあります。

ケン:串本町は、当時の駐日トルコ大使、ウトカン氏の言葉として、トルコでは子どもでもエルトゥールル号を知っている、だからトルコ航空機が飛んだのだ、と紹介しています。ただ、この発言の日付や、最初に載った場所は、確かめられませんでした。

ケン:一方で、外務省と首相官邸の記録は、日本からの要請と、トルコの決断を書いていて、エルトゥールル号を理由としては、挙げていません。

キョウコ:どっちが、本当なんでしょう。

ケン:どちらも、本当でありうる、と思います。その場にいた人たちは、95年を越えて、感謝が届いたと感じた。そして記録は、ふたつの政府と、大使館と、危険を引き受けた乗員たちが、決断を重ねた姿も残している。両方を手放さないことが、関わった全員への敬意になる。

ケン:友好は、ずっと途切れなかったわけでもありません。第二次世界大戦の終わりに、トルコは日本に宣戦布告しています。それでも、両国の人々は、そのたびに、つながることを、選び直してきました。2023年のトルコの大地震では、串本町が、3,000万円を超える義援金を集めて、届けています。

キョウコ:今、樫野に行くと、何がありますか?

ケン:島の東の端に、慰霊碑と、トルコ記念館と、樫野埼灯台が、まとまってあります。JR串本駅から、バスで37分、タクシーで20分ほど。毎年9月16日には、慰霊碑の前で追悼式典が開かれています。

キョウコ:ケンさん。灯台の人たちは、あの男の人が、どこの誰かも、知らなかったんですよね。わかっていたのは、助けがいる、ということだけ。

キョウコ:それで、自分のお米を出して、何を使ったかを、きちんと書き残した。わたし、その、書き残した、というところに、じんときました。

ケン:いい気づきですね。優しさを、大げさにせず、正確に残す。だからこそ、130年以上たった今も、わたしたちは、あの夜を信じられるんです。

ケン:最後に、聞いている皆さんにも、ひとつ問いかけを。言葉の通じない誰かが、目の前で困っていたら、あなたは、何を差し出せますか。

キョウコ:わたしは、まず、駅で道に迷っている人がいたら、声をかけてみます。言葉が通じなくても、手まねでも。

ケン:灯台日誌の記録、資料ごとの数字の違い、行き方と出典、写真は、J-Times の記事、エルトゥールル号遭難事件とは、にまとめています。番組の説明欄から読めます。

キョウコ:次回もお楽しみに。

ケン:つなぐ人。日本と世界の物語。お相手は、ケンと、

キョウコ:キョウコでした。またね。