
金沢に生まれ、日本統治下の台湾で烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師、八田與一。植民地の時代という背景も正直に見つめながら、なぜ今も台湾で慕われるのかを、ケンとキョウコがたどります。
この番組の声は AI で作っています。
番組メモ
- 1886年金沢生まれ。台湾総督府の技師として烏山頭ダムと嘉南大圳を手がける
- 資料によって数字が違うところは、そう伝えています
記事で読む(写真・出典つき)
八田與一とは — 台湾の烏山頭ダムと嘉南大圳を造った技師の生涯と、今も慕われる理由
この番組について
この番組の声は AI(ElevenLabs Eleven v4)で作っています。内容は J-Times 編集部が公式の情報と公開記事の出典で確認したものです(2026年10月26日時点)。テーマ曲: 「むすび」高橋高(アルバム『直霊 ─ NAOHI ─』)。BGM: 高橋高(Suno で制作)。J-Times は Jon&Coo Inc. が運営しています。
台本(文字起こし)
番組の会話をそのまま文字にしたものです。声は AI で作っています。
キョウコ:ねえケンさん。2026年の5月8日、台湾のあるダムのほとりで、総統が、日本人の技師の銅像に花を手向けた、って聞いたんです。
ケン:烏山頭ダムですね。その日は、技師が亡くなって84年目の追悼式でした。日本からは、金沢市長や、技師のお孫さんをふくむ、280人あまりが参列しました。
キョウコ:84年も前に亡くなった人を、今も?
ケン:ええ。総統は、こう述べたそうです。水は、田畑だけでなく、人の心にも流れている。
キョウコ:人の心にも、流れている。
ケン:J-Times のポッドキャスト、つなぐ人、日本と世界の物語。語り手のケンです。
キョウコ:聞き手のキョウコです。この番組の声は、AIで作っています。お話の中身は、J-Times 編集部が、公的な資料などで確かめたものです。
ケン:第1回は、八田與一。台湾の大地に、水を引いた技師です。
キョウコ:八田與一さん。どんな人だったんですか?
ケン:1886年、明治19年の2月21日。今の石川県金沢市に、五男として生まれました。第四高等学校から、東京帝国大学の工科大学へ。土木を学びます。
ケン:1910年、24歳で、台湾総督府の技手になりました。
キョウコ:台湾総督府。ということは、そのころの台湾は。
ケン:はい。台湾は、1895年から1945年まで、日本の統治下にありました。八田は、その統治の役所の技師として、海を渡ったんです。この話は、まず、そこから始めないといけません。
キョウコ:植民地の時代の、お話なんですね。
ケン:そうです。そのうえで、聞いてください。台湾の南西部に、嘉南平原という、広くて肥えた土地がありました。でも、雨は5月から10月に集中する。水はけも悪い。洪水と、干ばつを、くり返していました。
キョウコ:雨が降れば水びたし、降らなければ、からから。
ケン:天気まかせの田んぼ、だったんです。八田は、灌漑でこれを変えられると考えました。1917年に、計画をまとめます。
ケン:計画が認められると、八田は総督府の職を辞めて、1920年にできた水利の組合の技師になりました。そこから10年。工事は1920年から1930年まで続きます。
キョウコ:どんなダムを造ったんですか?
ケン:堰堤の長さは1,273メートル。高さは56メートル。金沢ふるさと偉人館は、当時では東洋一の規模、と紹介しています。
ケン:水路は、総延長およそ1万6千キロ。およそ15万ヘクタールの農地に、水を届けました。これが、嘉南大圳です。
キョウコ:1万6千キロ! 想像がつかない長さです。
ケン:ただ、今の水路の数字は、資料によって違います。2026年の追悼式で、総統は、水路の総延長を8,810キロと述べました。何を数えた数字なのかは、確かめられていません。
キョウコ:地震の多い台湾で、そんなに大きなダム。どうやって造ったんですか?
ケン:セミハイドロリックフィル、という造り方です。土や石を、両側に盛る。そこへ水を当てる。すると、細かい土ほど、真ん中へ流れていく。真ん中に、水を通さない粘土の層ができるんです。
キョウコ:水の力で、土を並べるんだ。
ケン:そうです。コンクリートは、ダム全体の、およそ0.5パーセントだけ。大型の機械も、47種類、取り入れました。そしてもう1つ、大事なことがあります。
キョウコ:なんですか?
ケン:働く人の町です。よい仕事は、安心して働ける環境から生まれる。そう考えて、現場に、宿舎や学校、病院、お店、お風呂、プール、テニスコートまで造りました。八田自身も、家族とそこで暮らしました。
キョウコ:家族と暮らせる工事現場。働く人のことを、ちゃんと見ていたんですね。
ケン:つらい出来事も、ありました。1922年の12月、トンネルでガス爆発が起きて、多くの作業員が死傷しました。人数は、資料によって違います。
ケン:翌年の1923年には、関東大震災で、補助金が削られました。作業員を、大きく減らさなければならなくなります。約半分とする資料も、3分の1ほどとする資料もあります。
キョウコ:工事の途中で、辞めてもらう。つらい決断ですね。
ケン:伝えられているのは、こういう話です。八田は、有能な人から先に辞めてもらった。そのほうが、次の仕事を見つけやすいから。再就職の先を探し、工事が戻ったら、優先して雇い直す、と約束した、と。
ケン:10年の工事で、家族をふくめ134人が亡くなりました。八田は、ダムの下に殉工碑を建てて、日本人と台湾人の区別なく、亡くなった順に、名前を刻みました。
キョウコ:区別なく、亡くなった順に。
ケン:ひとつ、正直に言っておきます。こうした話の多くは、伝記や、顕彰の資料にもとづいています。日本人と台湾人の待遇や賃金をくらべた一次資料は、記事の取材では見つかりませんでした。
キョウコ:じゃあ、この大きな工事は、結局、誰のためだったんでしょう。
ケン:いい問いです。答えは、その両方。台湾の農民のためでも、帝国のためでもあった。どちらに重きを置くかは、今も研究者のあいだで議論があります。
ケン:水は、平原全体を毎年うるおすほどは、ありませんでした。そこで、土地を3つに分けて、稲、サトウキビ、それ以外の作物を、1年ごとに回したんです。三年輪作です。
キョウコ:乏しい水を、みんなで分け合う工夫、ですね。
ケン:そう見る資料もあります。水を受けられる農家は3倍になり、1937年には、米の生産額が、建設前のおよそ11倍になった。お米は、日本へも送られました。
ケン:一方で、同じ仕組みを、批判的に見る人もいます。経済学者の矢内原忠雄は、1929年の、帝国主義下の台湾という本で、日本の砂糖の会社の利益にかなうものだ、と論じました。
ケン:農民は、重い水租、つまり水の使用料を負いました。作るものを、自由に選べなくなった。1930年には、およそ1,000人の農民が抗議し、払えなかった土地が競売にかけられた、という記録もあります。
キョウコ:いい話だけじゃ、ないんですね。
ケン:ええ。ただ、台湾大学の経済学者たちは、2006年の研究で、農民の所得は大きく上がったと結論づけています。同じ事実を見て、どこに重みを置くか。そこが違うんです。
キョウコ:八田さんは、そのあと、どうなったんですか?
ケン:1942年5月8日。フィリピンへ向かう大洋丸が、東シナ海で、アメリカの潜水艦に沈められました。八田は、56歳で亡くなりました。
キョウコ:5月8日。追悼式の日ですね。
ケン:妻の外代樹さんは、終戦からおよそ2週間後、1945年の9月1日に、烏山頭ダムで、自ら命を絶ちました。45歳でした。台湾の資料には、8月とするものもあります。今は、夫とともに、ダムのほとりに眠っています。
キョウコ:そうだったんですね。
ケン:そのお墓を建てたのは、嘉南の人たちでした。1946年のことです。そして、その年から毎年、5月8日に、お墓の前で追悼を続けてきました。
ケン:座った姿の銅像は、八田が生きていた1931年にできたものです。戦争の終わりに持ち出されたあと、戦後に地元の人たちが見つけ、日本人の銅像が禁じられていた時代に、隠して守りました。1981年に、元の場所へ戻ります。
キョウコ:隠して、守ったんですか。
ケン:尊敬は、一枚岩ではありません。2017年には、銅像の頭が切り落とされる事件がありました。頭は見つからず、奇美博物館にある同じ像から型を取って、修復されました。
ケン:2011年には、工事のころの宿舎と八田の家を復元した、八田與一紀念園区が、ダムの北側に開かれました。ダムは、台南市の官田区にあります。
ケン:そして2026年の5月7日。八田の生まれた金沢市と、台南市が、合意書を結んで、友好都市になりました。
キョウコ:今日のお話を聞いて、思ったんです。八田さんに感謝することと、その時代の仕組みを問うこと。どちらかを選ばなくても、いいのかもしれないって。
ケン:記事も、そう結んでいます。どちらも消さずに、両方を抱えることが、いちばん誠実な覚え方かもしれない、と。
キョウコ:最後に、聞いている皆さんにも、ひとつ問いかけを。日本と台湾の友好は、よく、八田さん一人の物語として語られます。でも、水路を守ってきた農民や、殉工碑の134人の物語も、一緒に思い浮かべたら。あなたには、何が見えてきますか?
ケン:生涯の歩み、ダムの造り方、評価の議論、行き方、写真と出典は、J-Times の記事、八田與一とは、にまとめています。番組の説明欄から読めます。
キョウコ:次回は、三浦按針、ウィリアム・アダムス。なぜ伊東で、日本で初めての洋式の帆船が造られたのか。いっしょにたどりましょう。
ケン:つなぐ人、日本と世界の物語。お相手は、ケンと、
キョウコ:キョウコでした。またね。
