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三浦按針(ウィリアム・アダムス)とは — なぜ伊東で日本初の洋式帆船が造られたのか

三浦按針(ウィリアム・アダムス)とは — なぜ伊東で日本初の洋式帆船が造られたのか

家康に仕えた英国人航海士と、伊豆・伊東の松川河口で進水した2隻の船

作者:J-Times Editorial·2026年10月26日·1 min

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J-Times 編集部 / J-Times Editorial Team

2026年10月26日1 min6 次浏览
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三浦按針(ウィリアム・アダムス)は1600年に豊後へ漂着し徳川家康に仕えた英国人航海士。伊東で約80トンと120トンの洋式帆船を造り、120トン船は1610年にスペイン人一行をメキシコへ運んだ。なぜ伊東だったのかを、本人の書簡と自治体の資料から解説する。

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三浦按針(ウィリアム・アダムス)とは — なぜ伊東で日本初の洋式帆船が造られたのか

答え(2026-09-23時点):三浦按針は1600年に漂着し徳川家康に仕えた英国人航海士ウィリアム・アダムスで、伊東で約80トンと120トンの洋式帆船2隻を造った。

三浦按針の名前は、伊東では夏の「按針祭」で毎年のように耳にする。一方で「なぜイギリス人が伊豆の小さな港町で船を造ったのか」まで説明できる人は多くない。幸い、按針本人が1611年に日本から書き送った手紙が残っていて、19世紀に英国のハクルート協会が活字にしている。本稿はその手紙と、伊東市・横須賀市・平戸市・英国図書館などの資料を突き合わせて経緯をたどる。資料どうしで食い違う点は、どちらかに寄せず、両方を示す。

三浦按針とは誰か — なぜ「三浦」で「按針」なのか

三浦按針は、1564年に英国ケント州ジリンガムで生まれ、1600年にオランダ船リーフデ号の航海士として日本に着き、1620年に平戸で亡くなるまで日本で暮らしたウィリアム・アダムスの日本名である。

リーフデ号が豊後(現在の大分県)に着いたのは1600年4月のこと。伊東市は漂着地を臼杵とし、伊東観光協会は臼杵市佐志生(さしう)と記す。アダムス自身の手紙によれば、錨を下ろした時点で船に残っていたのは病人も含めて24人で、翌日には3人が亡くなった。オランダを出て大西洋と太平洋を越えてきた航海が、どれほど過酷だったかがわかる。

アダムスはその後、ガレー船で大坂へ運ばれた。妻に宛てた手紙では、1600年5月12日に「大王」の都に着き、ポルトガル語の通訳を介して取り調べを受けたと書いている。この「大王」が徳川家康である。アダムスは、家康から国と国との「戦と和平」について事細かに問われ、2日後にも再び呼び出されたと記している。外洋を渡ってきた航海士で、オランダやイングランド、そしてスペイン・ポルトガルの事情を知る人物は、関ヶ原を目前にした家康にとって手放しにくい存在だったと考えられる。

「按針(あんじん)」は水先案内人、つまり船の針路を定める航海士を指す言葉だと伊東観光協会は説明している。「三浦」は相模国三浦郡のことで、家康はここの逸見(へみ、現在の横須賀市)に按針の知行地を与えた。石高は資料で分かれる。横須賀市の史跡解説は220石とし、同市が紹介する石碑の碑文と伊東観光協会は250石とする。アダムス本人は1611年の手紙で、その暮らしを「イングランドの領主のような身分で、80〜90人の農民が仕えている」と表現している。伊東観光協会は、家康が按針に武士の証である二本の刀も与えたと紹介している。

なぜ伊東で洋式帆船を造ったのか

家康は西洋式の外洋船を求め、伊東は天城山系の木材、急に深くなる岸、よく発達した砂州という、機械のない時代の造船に向いた条件を備えていたと伊東観光協会は説明している。

最初の船が生まれた経緯を、アダムスは手紙で淡々と書いている。来日から4〜5年ほどたったころ、家康に小さな船を造るよう命じられた。アダムスは自分は船大工ではないと断ったが、家康は「やってみよ、うまくいかなくてもかまわない」と答えたという。こうしてできたのが「およそ80トン」の船で、「あらゆる点で我々の流儀どおり」に造られていた。家康は船に乗り込んで気に入り、アダムスはその後たびたび御前に呼ばれるようになった。

ただし、アダムスの手紙は造船の場所を書いていない。伊東と結びつけているのは日本側の資料である。伊東観光協会によれば、家康は御船奉行の向井将監らを按針とともに伊東へ向かわせた。伊東が選ばれた理由として、同協会は次の点を挙げる。

  • 木材が手に入りやすい。 伊東は天城山系を背にしており、船材を山から下ろしやすかった。
  • 岸がすぐ深くなる。 完成した船体を浮かべるまでの距離が短くて済む。
  • 砂州が発達している。 河口の砂州を掘り下げれば、そのまま船台として使えた。

同協会は、江戸初期の見聞記『慶長見聞録』の記述も現代語で紹介している。それによると、造船の場所は伊豆国伊東の浜辺で、川辺に適地があった。海岸の砂州に穴を掘り、砂の上に柱を並べて敷台とし、その上で船底を組んだ。組み立てが進むにつれて砂を掘って船を少しずつ下げ、完成すると川を堰き止め、たまった水を一気に船のまわりへ流し込んで海に浮かべた。いわば「砂のドック」である。ドックが松川のどちら岸にあったかについては、従来は右岸とされてきたが、地質調査を合わせた研究では左岸だった可能性も指摘されているという。

もう一つ、公式資料どうしで表記が異なる点がある。伊東観光協会は造船地を「松川の河口」とし、伊東市の友好都市紹介ページは「伊東の唐人川」で建造したと書く。唐人川(とうじんがわ)は、按針メモリアルパークの近くを流れる川だと同協会は説明している。伊東で造られたことは両者で一致しており、違うのは川の特定である。

伊東で造られた船は、いつ、どれほどの大きさだったのか

大きさは按針本人が約80トンと120トンと書いている。建造年は本人の記述がなく、後の資料で1604年から1607年まで幅がある。

ここは資料の食い違いがはっきり出る部分なので、年表に並べておく。

年出来事出典
1564年アダムス、英国ジリンガムに生まれる(9月24日)伊東観光協会/横須賀市(年のみ)
1600年リーフデ号が豊後に着く(4月)。大坂で家康に会う(5月)アダムス書簡(ハクルート協会刊)/伊東市
1604〜1605年ごろ1隻目・約80トンの洋式帆船アダムス書簡(トン数)/伊東観光協会(1604年)/伊東市(1605年)
1605〜1607年ごろ2隻目・120トンの洋式帆船(のちのサン・ブエナ・ベンツーラ号)アダムス書簡(トン数)/伊東観光協会(1607年)
1609年スペイン船サン・フランシスコ号が御宿沖で遭難(9月30日)御宿町/千葉県
1610年120トン船がビベロ一行を乗せてメキシコ(アカプルコ)へアダムス書簡/千葉県/伊東観光協会
1611年スペイン国王から救助の礼として洋時計が贈られる久能山東照宮/静岡県(寄贈者・製作年)/アダムス書簡(1611年の贈り物)
1613年按針が平戸に来て、英国商館の開設に尽力英国図書館/長崎県観光連盟/伊東市
1620年按針、平戸で死去英国図書館/横須賀市/東邦大学
1947年伊東で第1回の按針祭伊東観光協会
1982年伊東市とジリンガム市が姉妹都市に(1999年にメドウェイ市と再締結)伊東市/メドウェイ市議会

食い違いは二つある。一つはトン数。アダムスの手紙は2隻目を「120トン」とするが、英国の『英国人名辞典』(1885年版)は110トンと書く。本稿は、造った本人の記述に従って120トンとした。もう一つは建造年。伊東観光協会は1隻目を1604年、2隻目を1607年とし、伊東市の友好都市紹介ページはサン・ブエナ・ベンツーラ号の建造を1605年とする。どちらもアダムス本人の記述ではないため、本稿では一つに絞らず幅で示した。

アダムスは手紙で、1隻目で1〜2度航海したあと2隻目を命じられたこと、2隻目では京(手紙の表記では「Meaco」)から江戸まで航海したことも書いている。伊東の浜で組まれた船は、実際に日本の沿岸を走っていた。

伊東で造られた船はどこへ行ったのか

120トンの船は太平洋を渡った。1610年、家康はこの船を遭難した前フィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロに貸し与え、一行はメキシコのアカプルコへ帰った。

発端は1609年9月30日の海難である。マニラからメキシコへ向かっていたスペインのガレオン船サン・フランシスコ号が嵐で座礁し、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸に打ち上げられた。御宿町は生存者を317人と記録している。アダムスは手紙で救助された人数を「340人か350人」と書いており、数字には開きがある。いずれにしても、300人を超える乗員が地元の人々に助けられたことは両者で一致する。

アダムスの手紙はその先をこう書く。自分が造った大きいほうの船は、1609年に王(家康)がマニラの総督に貸し与え、総督は80人の部下とともにアカプルコへ向かうことになった。そして総督は1610年、「私が造った大きい方の船」でアカプルコへ送られた、と。千葉県の解説は、この船が「サン・ブエナ・ベンツーラ(幸運)号」と名付けられ、商人・田中勝介をはじめ23人の日本人も乗り込んだと記している。伊東観光協会は、一行が浦賀を出てアカプルコに着いたのを10月27日としている。

この航海には外交上の続きがある。アダムスによれば、1611年にスペイン側は代わりの船を送り、大使と大きな贈り物を届け、家康の船の代金も品物と金で支払った。そのうえで、伊東で造られた船は「今はスペイン人がフィリピンで使っている」と書いている。静岡市の久能山東照宮には、1611年にスペイン国王フェリペ3世が海難救助の礼として家康に贈った洋時計が今も残る。同宮によれば1581年にマドリードで作られたもので、国の重要文化財に指定されている。伊東の浜で造られた1隻の船が、日本とスペイン、メキシコを結ぶ最初期の公式なやりとりの一部になったわけだ。

伊東には今、何が残っているのか

伊東では毎年8月の按針祭、河口近くの按針メモリアルパーク、按針の故郷との姉妹都市関係が按針を伝えている。墓所は平戸と横須賀にある。

按針祭は按針をたたえて伊東で毎年8月に開かれる祭りで、伊東観光協会によれば第1回は1947年だった。日程は年ごとに変わるので、伊東の祭り・イベントカレンダー(按針祭を含む)で確かめてほしい。海沿いの按針メモリアルパークには彫刻家・重岡賢治氏の作品が置かれていると同協会は紹介している。伊東市は、按針を顕彰し市とのゆかりを伝える市民活動に補助金を出しており、ゆかりは今も行政の仕事として続いている。

英国との縁も公式なものだ。伊東市によれば、按針の生まれ故郷であることを理由に、1982年8月10日に英国ジリンガム市と姉妹都市の提携を結び、ジリンガム市が合併してメドウェイ市となったあと、1999年4月9日に改めて提携を結んだ。メドウェイ市議会の資料にも、伊東・横須賀との関係が同市の国際交流の一つとして記されている。国内では、伊東は臼杵(上陸地)、横須賀(知行地)、平戸(終焉の地)とともに「三浦按針連携市」の一つになっている。

按針が亡くなったのは1620年、平戸でのことで、英国図書館と東邦大学の資料は5月16日としている。横須賀市逸見の「三浦安針墓」は1923年に国の史跡に指定された。横須賀市は、ここの2基の石塔を、按針の遺言により江戸を望む地に建てられた供養塔と考えられると説明している。平戸では、按針の墓地の周辺から出土した人骨を東邦大学などの研究チームが分析し、2020年に「按針本人である可能性が高い」とする結論を公表した。ただし、同じ特徴を持つ別人の可能性も完全には否定できないとしている。

三浦按針と伊東のよくある質問

Q. 三浦按針は伊東に住んでいたのですか。 A. 伊東は造船の場所であり、按針の知行地は横須賀の逸見、晩年を過ごし亡くなったのは平戸です。伊東に定住したことを示す一次資料は本稿の調査では確認できませんでした。

Q. 按針が造ったのは本当に「日本初の洋式帆船」なのですか。 A. 伊東市は、按針が伊東で造った船を「日本初の洋式帆船」と位置づけています。アダムス本人の手紙は、家康のために西洋式の船を約80トンと120トンの2隻造ったことを記していますが、「日本初」とは書いていません。

Q. 按針はイギリスに帰れたのですか。 A. 帰れませんでした。1611年の手紙で、妻子に会うため帰国を願い出たが家康が許さなかったと書いています。英国図書館や長崎県観光連盟の資料によれば、1620年に平戸で亡くなりました。

Q. 按針祭はいつ開かれますか。 A. 毎年8月に伊東で開かれます。具体的な日程は年ごとに変わるため、上に挙げたイベントカレンダーで確認してください。

出典・確認日(すべて2026-09-23に確認)

文・J-Times 編集部(2026-09-23時点の情報)

アイキャッチ画像: 663highland / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0 (https://commons.wikimedia.org/wiki/File:231007_Anjin_Memorial_Park_Ito_Shizuoka_pref_Japan01s3.jpg)

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